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【ヒサクニヒコのマンガ何でも劇場〈特別編〉】畏敬の念とは......
2024/09/13
日本人は富士山が大好きだ。富士山がない地方でも、独立峰の似た姿の山があると「〇〇富士」と名付けて愛し尊ぶ。ほとんどが火山性の山で自然のパワーと造形に惹かれるようだ。
山だけではない。柱状節理の発達した崖、石灰岩が浸食された鍾乳洞や奇岩の光景。大規模な断層による滝や波に浸食された海岸の岩、どれも人間の力を超えたエネルギーと時間が手掛け、作り上げた景色だ。聖地になったり観光地になったり様々ではあるが人が感嘆し大切に思う光景だ。先日の国立市での、富士山の見える道路の障害になるからと、ほとんど完成したマンションを取り壊すという報道にはびっくりしたが、富士山にはそれくらいのパワーがあるのだろう。
絶景と思われる人々を惹きつける景色が広がるところは国立公園などに指定され、社会共通の財産として大切にされる。景色そのものだけでなく、その景色を生み出した地球の活動そのものに畏敬の念を抱くから社会共通の財産として認められるのだろう。
日本だけではない。世界中に素晴らしい自然の営みがあり人々を惹きつけている。氷河が刻んだ険しい地形、プレートの裂け目が生んだ生々しい活火山、荒々しい砂漠から緑の大平原まで人々の好奇心を呼び観光客を招き寄せる。そんな世界各地の絶景をずいぶん見させてもらったが、人類の力の及ばない地球の営みと時間の流れにまさしく畏敬の念を味わった。
東アフリカのサバンナの光景にも圧倒された。大地の裂け目といわれる大地溝帯の両側に広がるサバンナは人類発祥の地でもある。
何百万年か前の大昔、森の類人猿から枝分かれした人類の祖先はサバンナの環境の中で今の人類に必要なすべてを獲得していった。ゾウやカバ、サイとともに暮らし、ライオンやヒョウにおびえ気候の変化に耐え、やがてアフリカから全地球へと進出する。そんなサバンナでしみじみ思うのは、自然の素晴らしいエネルギッシュな景色だけでなく、その自然が生み育てた生命の多様性と奥深さだ。単細胞の生命から始まって何十億年もの時間の中で地球の刻々と変わる環境の中を生き延び、環境に合わせて多様化し、今のような動物相を作り上げた生命そのものの営みだ。
今、地上で一番大きな動物といえばアフリカゾウだろう。あのような巨体が目の前で生きているだけでも感動する。富士山を思わず拝んでしまうようなあの感覚だ。
サバンナでアフリカゾウの群れに会う。仔ゾウが母親にじゃれついたり、叱られたりしながら草を食み水を探し安全な場所で休む。何百年も何千年もそうやって命をつないできたのだ。大きな動物は成長にも時間がかかるし妊娠期間も長い。餌もたくさん必要だ。そんなゾウの群れが生きのびるには、それを養える環境が長く続かないと成り立たない。大人になったゾウは強力だが子どもの時はライオンやハイエナの餌食になる。身を護る力が必要だ。草食動物たちは隙を見せればちょっとしたことでもライオンやヒョウなどのご飯になる。肉食動物もわが身を養い子孫を残すべく運命づけられている。植物の繁茂、草食動物の増減、肉食動物の増減、それらの微妙なバランスで自然界の生態系が形作られているのがサバンナに立つとよくわかる。ライオンの牙もゾウの巨体もレイヨウ類の角もみなそのために進化したものだ。
そんなバランスを崩したのは人類だ。鉄砲や車といった生物の時間をかけた進化とは別の道具でゾウでもライオンでも倒せてしまう。植物の栽培といって人間のためだけに囲い込んで他の動物に利用させない。今までの生態系の仕組みを根底からひっくり返し始めたのだ。ゾウを見て畏敬を抱く人類が、経済という眼鏡をかけた瞬間に畏敬が見えなくなってしまうのだ。
そのことは海でも顕著だ。広い大洋は生命のふるさとであり独特の生態系を形作ってきた。長い間人類の海の生態系に対する関与は沿岸だけに限られていたといっていい。それががらりと変わったのが現在の海だ。大きな船で世界中の海の何処にでも行く。魚群探知機で魚の群れをくまなく把握できる。GPSで船同士が正確な位置で魚群を把握追跡できる。トロールで海底を根こそぎさらう、いろいろな条約がありながら実質やりたい放題、従来利用できなかった深海にまで手が伸びている。
そんな海の生態系のトップともいえる巨大な動物がクジラである。30メートルを超える巨体は生物進化の頂点ともいえる大きさだ。地上の重力による制約を受けないのでかつての恐竜もかなわない大きさだ。存在そのものが畏敬に値する生物だ。これを経済の眼鏡をかけてしか見ようとしない人たちがいる。何十年もかけて世界の海をめぐり巨体に成長し地球の海を代表するのがクジラなのに。
捕鯨賛成の人たちがよく口にする言葉を並べてみる。「クジラは日本の伝統食である、食文化だ」「クジラは現在捕られてないので増えすぎて漁業資源を圧迫している」。どれも嘘ばかりである。日本をはじめ南洋諸島などで広く行われていた沿岸捕鯨は、人力による銛漁で、捕る種類も数も限られたものだった。日本人が本格的にクジラ食を始めたのは近代捕鯨が始まってからで、特に戦後の食糧難の時代に南氷洋での大量の捕鯨が国民を養った実績がある。その時代に捕鯨オリンピックとまでいわれた各国による大量の捕鯨によって、シロナガスクジラなど大型のクジラがほぼ絶滅寸前まで追い詰められたのである。
国内での鶏豚牛などの肉の安定供給、海外からの牛肉大量輸入なども始まり、鯨肉そのものの流通も弱まり世界の捕鯨禁止世論もあり捕鯨禁止を受け入れていたが、2019年にIWC(国際捕鯨委員会)を脱退、大型鯨類を対象とした捕鯨業を再開した。そして本年「ナガスクジラ」も捕獲の対象として認める方針としたのだ。
南氷洋のクジラが伝統食という嘘はよしてもらいたい。ましてクジラが人間の取り分の魚を食べてしまうというのは全く逆で、本来クジラを養うはずの魚やイカ、オキアミなどを根こそぎとってしまうのは人間のほうなのである。そんな最中に大型の捕鯨母船を運用し始めた日本は世界から笑われるのではないだろうか。海の王様クジラに対して経済とか利権とかの眼鏡をはずして畏敬の念を持ってもらいたいものだ。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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