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【書評】『福澤諭吉 教育論──独立して孤立せず』(山内慶太・西川俊作編)
2024/06/25
先日、私の許に山内慶太さん編集の『福澤諭吉 教育論』(慶應義塾大学出版会、2024年。以下、新版と略)が届いた。以前より、故西川俊作先生を共同編者として出版した『福澤諭吉著作集 第五巻』(慶應義塾大学出版会、2002年。以下、旧版と略)の改訂増補版が出ると伺っていたが、ここにいよいよ上梓されたのである。
早速、新旧両版の中味を比較してみると、何編かの資料が新しく追録され、それら新収資料への言及を含め、巻末の解説も丁寧に改訂が施されている。また、本文と解説部分で500頁近い浩瀚な書物だが、ソフトカバーに新装され、しなやかでハンディになった。
本書が収める福澤の数多くの言説はみな、演説や社説、さらに書簡や門下生への追悼文等、様々な文脈を背景として持ち、またそれらは現代語訳ではなく明治の文体のまま採録されているから、一瞥すれば、少々取っ付きにくい「歴史文書」の面持ちを保っている。
こうした歴史資料集的な性質を前提に旧版では、やや理解の難しい表現や福澤に固有の言い回し等に振り仮名を付し、さらに、それらの語義や、文中に現れる人名等の固有名詞・歴史事実等についての短い解説を、見開き頁の各奇数頁の欄外に記した。新版も、歴史研究者にとどまらない幅広い層の読者を想定したこの編集方針を引き継いでいる。
ここで、視点を少し本書の内容に向けてみよう。実はこれまでも福澤の教育論をテーマとした資料集は、富田正文編者代表『福沢諭吉選集第三巻』(岩波書店、1980年。選者・解説者は山住正己氏)や山住編『福沢諭吉教育論集』(岩波文庫、1991年)等、いくつかあった。19世紀後半期の日本において近代的人間像の創造とその実現のために、福澤ほど熱心に取り組んだ思想家はいなかったからである。
だが、確かに福澤の教育論は日本の近代化を導きはしたが、空振りに終わったところも多かった。山内さんも、「福澤の教育論は、(中略)明治時代どころか、昭和になっても敗戦までは少数論であって、時代の大勢を占めるには至りませんでした」と本書の「序文」(後述)ではっきりと述べている。
では、この資料集の編者のねらいはどこにあるのだろうか。それは、編綴された各資料を、ただ福澤の教育論を理念的かつ抽象的に抽出するための素材としてではなく、福澤自らが教育を実践し試みた慶應義塾の「場」と繋がる有機的な連関の中に配置した点に求められる。
目次を開けば、第Ⅰ部が「慶應義塾」に、第Ⅱ部が「学問と教育」に、それぞれ充てられる。第Ⅰ部には、「慶應義塾の命名」「慶應義塾の改革と維持」「一貫教育体制の確立」「演説事始め」「教育の基本方針」「社中への呼びかけ」「塾生に対する訓話」「門下の早世を悼む」といったテーマが並ぶ。また第Ⅱ部では、「学問の独立」「学者の志操と矜持」「教育論」「家庭教育」「専門教育」「学校教育の独立」「社会教育」と続く。Ⅰ、Ⅱ部とも各テーマの下に数編の資料が分類され、福澤の教育論で有名な「学者安心論」(明治9年)、「徳育如何」(同15年)、「学問之独立」(同16年)、「文明教育論」(同22年)、といった論説は、みな第Ⅱ部に収められる。
一方、第Ⅰ部には、一貫教育を含む学事編成の改革、社中や塾生、それに門下生に呼びかけた文書が収められ、福澤の教育に関わる言説が慶應義塾ゆかりの風景と交差しながら発せられていたことを伝える。本書の構成はまさに、福澤の教育論を理解するためには、彼の理論がその実践の場と常に往還する中で錬成されたことを忘れてはならないと、読者に訴えているのである。
これにとどまらず新版では、「本書を愉しく読むために」と題した序文を山内さんが寄せ、いくつかの資料を「福澤諭吉になったつもりで、細かい意味にこだわらずに音読」することを新たに推奨している点が注目される。そして、福澤の文体のリズム感を声に出して味わうことで「格段に読みやすくなる」と説いている。
現在、山内さんは、塾内一貫校を所轄する常任理事の職にあり、諸学校の式典や記念講話の際には塾長とともに生徒の前に立ち、福澤や慶應義塾の歴史に遡りながら、彼らに塾生としてのアイデンティティの形成を促している。
平易な「です・ます」調で呼びかけるこの新版の序文には、現代語訳を介さず福澤のオリジナルのテキストを、じかに「愉しみ」、親しむ方法としての音読のすすめが提唱されている。ここに若い塾生を将来、福澤や慶應義塾史の研究へと誘おうとの山内さんの熱い期待を感じるのである。
慶應義塾大学出版会
524頁、2,530円(税込)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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岩谷 十郎(いわたに じゅうろう)
慶應義塾常任理事