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【KEIO Report】令和6年能登半島地震へのDMAT派遣活動を終えて

2024/03/15

被災地の様子
  • 佐々木 淳一(ささき じゅんいち)

    慶應義塾大学医学部救急医学教室教授
  • 山元 良(やまもと りょう)

    慶應義塾大学医学部救急医学教室助教

令和6年1月1日、日本中が深い悲しみに包まれました。マグニチュード7.6、最大震度7の能登半島地震は、短い時間で多くの命を奪いました。この甚大な災害で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。いまだ多くの被災者が厳しい生活を余儀なくされていますが、ここに慶應義塾大学病院DMAT隊の活動をご報告させていただきます。1月11日、我々DMAT隊は、東京都DMAT調整本部からの指令に基づき能登半島へ出動しました。慶應義塾大学病院には医師6名、看護師4名、業務調整員(通称、ロジ)2名の隊員がいますが、今回は計5名(医師1名、看護師2名、ロジ2名)で隊を構成し、1月19日までの9日間の派遣業務を行いました。

DMATはDisaster Medical Assistance Teamの略称で、災害急性期に活動できる機動性を持った災害派遣医療チームとして、専門的な訓練を受けています。職種にかかわらず全隊員がライフラインの途絶えた被災地での自立生活、活動中の安全管理、病院外での医療活動などに関して、知識・技術を獲得しています。医師は隊員の体調管理や医療活動の指揮と実施、看護師は医療活動のサポートや被災者に寄り添った身体・精神面のケア、ロジは隊の機動力を確保した上での長距離運転や活動記録などを分担して行います。普段はそれぞれの職場で異なる通常業務を行っていますが、災害派遣の際にはチーム一丸となって取り組みます。

能登半島への出動では、途絶したライフラインと長期活動を考慮してキャンピングカーでの移動を選択しました。石川県、特に七尾市周辺より先では悪路や渋滞が予想されるため富山県に前泊し、1月12日の早朝に被災地域へと車を進めていきました。この時点ですでに全国のDMAT隊が被災地活動を開始しておりましたが、我々を含む東京都や千葉県から派遣されたDMAT隊は、能登半島北側に位置する輪島市へ参集するよう指示を受けました。特に被害が大きかった輪島市と珠洲市へと向かう道は、いずれも能登半島が東に折れる根本に位置する穴水町を通過します。穴水町まで来ると全壊家屋を多く認め、道路の液状化現象や崖崩れによる悪路が本格的となりました。さらに輪島市街地までは山越えとなり、参集拠点である輪島市役所内の輪島市保健医療調整本部(DMAT参集拠点)に到着するのに約6時間を要しました。この間、移動しながらの非常食や簡易トイレでの排泄という被災地内活動は開始しており、発災から2週間近く経ってもなおライフラインが途絶した現状を身に染みて感じました。

輪島市は、非常に多くの家屋やビルが倒壊し、ほとんどの道が地割れしており、市役所周囲も液状化現象で安全とはいえない状態でした。少しでも被災者の負担を軽くするよう到着直後から活動を開始しましたが、慶應DMAT隊は隊長がDMAT活動拠点本部の副本部長の任に就き、隊員全員が本部活動の役割を与えられました。我々は福祉施設班を担当し、市内福祉施設および入居者支援を行いましたが、輪島市が東西に広がる地理であることに加え、活動拠点の輪島地区から東の町野地区、西の門前地区への道が雪によって容易に閉ざされてしまうことから、困難な支援活動となりました。

DMAT隊の災害時の福祉施設への支援内容は主に2つあります。1つは支援物資を搬送しながら傷病者への医療提供と適切な医療搬送を行い、入居者および職員の安全を確保することです。これにはDMAT隊の施設への訪問が必要ですが、施設の地理的な位置や規模に合わせて、福祉施設班に配属された最大11隊のDMAT隊を指揮することで実施していきました。訪問した日によって職員から要求される物資の種別や量が異なることは常でしたが、多くの支援物資が入り乱れる被災地内の物流を管理する本部の物資班と連携し、入居者・職員の健康を最大限確保するよう支援を行いました。支援を通じて被災者の方々と交わした会話は深く記憶に残っています。

もう1つの重要な支援は施設避難です。被災地域では、通常では想像できないような過酷な状況でも、その場の人々による互助の仕組みが自然に発生します。この助け合いの精神は諸外国からも称賛される誇り高きものですが、時にはその活動・行動は張り詰めた糸が切れるように限界を迎えます。我々が担当した施設でも電気、水、ガス、食料など全てのライフラインが途絶した状況であっても、まだ頑張れるという意思を強く持っておりました。ただ、職員が1人でも体調不良となれば入居者の健康や安全を維持することは困難です。客観的には避難の必要があることをDMAT隊員と施設職員が何度も直接相談し、最終的にはほとんどの施設が避難の決断に至りました。避難は自衛隊とDMAT隊員の連携により無事に実施することができました。

非常食と寝袋生活に慣れた現地活動7日目に、新たに参集したDMAT隊へ業務を引き継ぎ、帰路につきました。ほとんどの隊員にとって初めての災害派遣でしたが、1月19日午後、隊員一同無事に帰ってこられたのは、活動を支援して下さったすべての方々のお陰だと感じています。なお、今後も続く能登半島への慢性期医療支援の調整など、DMAT隊は引き続きの活動を再開しております。

慶應DMAT隊

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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