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【KEIO Report】マイベスト・ガクモンノススメ

2024/03/15

  • 岩谷 十郎(いわたに じゅうろう)

    慶應義塾常任理事

1 『学問のすゝめ』発刊150年を記念して、2022年度から始まった「ガクモンノススメ・プロジェクト」。まだご存じではない読者は、ぜひとも同プロジェクトの特設ホームページをご覧頂きたい。慶應義塾のメインホームページからたやすく入ることができる。

創設者福澤諭吉の思想や義塾の理念に遡り、特にZ世代の若者たちと共に、これからの社会変革のヒントをそこに発見しようと、各界で活躍する塾員や研究者と塾長とが『学問のすゝめ』をめぐる熱いトークを重ねる──これが本プロジェクトのメイン企画である。

初回はタレントの櫻井翔氏、第2回は松岡修造、高桑早生、山縣亮太、原わか花、武藤嘉紀のアスリートの各氏、そして第3回は「ビリギャル」こと小林さやか氏といった卒業生との対談録画がYouTubeで公開された。目下留学のために滞米中の小林氏とのトークは、ニューヨーク学院で収録され、巽孝之学院長も登場した。さらに本年度中に、第4回の北岡伸一氏(東大・立大名誉教授、元JICA理事長)との対談も公開予定である。北岡氏は塾員ではないが、福澤の大ファンで、『独立自尊』と題する本も著している。

各回ともゲストのエピソードが披瀝され多彩な内容を楽しむことができる。これに加え、「『学問のすゝめ』マイベスト」という統一企画のコーナーもある。そこでは、『学問のすゝめ』を読んで特に印象に残った箇所をゲストに紹介してもらうのだが、その人ならではの味わいのある解釈が示される。そこで以下、紙幅の許す限り、それらの一部を紹介してみよう。

2 人は平等に扱われるべきであると説いた福澤において、その平等性とは「権理通義(=right)」の等しさを意味した(初編、2編)。そして人は他者のright を侵害しない限りにおいて自由であり、それを侵害した場合、つまり「分限」を越えた時、もはや自由は我儘となる。初編とそれに続く数編を費やし、福澤は個人主義を理論的にかつ分かりやすく解説する。この『学問のすゝめ』前半部の真骨頂のテーマに櫻井氏が堂々と切り込んだ。

櫻井氏は、芸能人という「リスクを負った人生を選んだ」自由には、常に学生としての本分を尽くすという責任(分限)が伴ってきたと振り返る。それは我儘に陥らないための同氏なりの自己規律だったのだろうが、結果として失敗への過度の恐れによる萎縮を遠ざけた。実はこの「リスクを負う(取る)」という表現は、他の3回の対談でも必ず現れた。

たとえばプロサッカー選手として海外で活躍する武藤氏は、「未だ試みずして先(ま)ずその成否を疑う者は、これを勇者と言うべからず」(4編)との言を引く。また小林氏は、アメリカの大学院留学を決断するに際して、それを選ぶことによって何を失うのかを真剣に考えた。そして北岡氏も、Z世代の若者へのメッセージとして、変化を恐れずに果敢に挑戦せよと促すが、それらはみな「リスクを取る(った)」行動として語られた。この文脈で「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む」(5編)との福澤の言も忘れられていない。自由とは他の誰のものでもない自分だけの重い扉を開くことなのだろう。

3 また、アスリートとの対談が「平和で友好的な世界を実現するスポーツの力」に及んだ時である。松岡氏が口火を切って休戦や停戦をもたらし得るオリンピックの効用について言及したのだが、高桑氏はさらに議論を深めた。「自らの弱みや傷をさらして競技するパラリンピック」を例に、それが初めて可能となるのは、ルールによって成立する公平な場が作り出されているからだと喝破する。パラリンピック選手として高桑氏は、そこに人間の意思の力が生み出す奇蹟と尊さとを指摘する。山縣氏も、スポーツは社会の縮図であるとして、スポーツを成立させる前提としてのルールの存在に目を向ける。自分たちが主体的にルールを作り、それを主体的に守ることの重要性が語られた。ここには、「国法の貴きを論ず」(6編)のエッセンスが滲み出ている。

福澤における法(ルール)は、もはや「お上」から被治者に向けた一方的な規制や命令ではない。彼は、「国民の政府に従うは、政府の作りし法に従うに非ず、自ら作りし法に従うなり」(同編)との近代国家創設のための新しい理解を示したのだが、スポーツ競技の世界においてもルールの作り手と守り手とが同一であるべきことが最善の結果を生むことが知らされたのである。

ところで、ルールを作り出す契機とは、それ以前とは異なる新しい価値による新しいシステムの構築を目指すところに与えられる。封建制度という旧システムからの脱却と近代社会システムの構築という困難な課題を同時に扱った『学問のすゝめ』は、「すべて物を維持するには力の平均なかるべからず」(4編)とも教えている。高桑氏はここを捉えて、「バランスを取ることは、けっして自分の心地のよい場所に安住することではない」と言う。偏りが生まれバランスが崩れてゆくこのことを指して、おそらく政治学者として北岡氏は「システムの停滞」と警鐘を鳴らしたのであろう。システム(ルール)はそれが必要とされた原初の状況を常に忘れてはならないのである。

4 以上には言及されていない「マイベスト」もある。たとえば原氏は、女性ラガーとしての自らの存在を通してより積極的に社会貢献を果たしたいと望み、その勇気を初編から得たと述べる。また山縣氏は、「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」(15編)という箇所をあげ、日本的視点の所与性を離れ世界的な価値規準に開かれてゆく意義をそこに重ねた。さらに小林氏は「事物を疑って取捨を断ずる事」(同編)を例にとり、留学中の異文化体験を学問的見地から分析する楽しみを熱心に語った。

『学問のすゝめ』は確かに時代を越えて今も読み継がれている。同書を繙く動機やきっかけはいろいろあり、それぞれに共鳴する箇所やその仕方が多様だからこそ面白いのである。さあ、あなたの「マイベスト」はどこにあるだろうか。本プロジェクトは、2024年度も継続して展開する。乞うご期待あれ。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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