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【From Keio Museums】金子諭吉の使用した下駄スケート

2024/02/13

下駄スケート ブレード:380mm、下駄の幅90mm、高さ90mm
大正末期~昭和初期頃の諏訪湖にて 左から2人目が金子諭吉
所蔵:慶應義塾福澤研究センター(3枚とも)

明治期以後の日本では例えば軟式テニスなど欧米由来のスポーツから独自に派生した競技がしばしば誕生している。その要因は主に経済的なものであったが、同時に人々の新しいスポーツへの欲求や好奇心の高さの表れとも見ることができる。この下駄スケートもまさにそれを象徴するモノだ。

日本におけるスケートは明治20年代頃から札幌、仙台、諏訪などで凍結した湖の天然リンクで始まった。当初は外国人宣教師や留学帰りが中心であったが、塾生たちも明治40年代には諏訪湖に愛好家が集まってスケートを楽しんだという。しかし革製のスケート靴は極めて高価で、だれでも容易に入手できるわけではなく、そこで考案されたのが下駄にブレードをつけた代用品の下駄スケートであった。諏訪では明治30年代末より量産され、年々改良が加えられていき、スピード用、フィギュア用と用途に応じた進化も遂げるなど冬の娯楽としてすっかり市民権を得たのである。

このスピード用の下駄スケートはそうした進化を遂げた大正期のものと思われる。旧蔵者は塾体育会スケート部草創期の選手・金子諭吉で、彼が大正末~昭和初期頃の諏訪中学校時代に使用したものだ。慶應義塾高等部に進学した金子はスケート部選手として全日本学生氷上競技選手権にてフィギュアで昭和3~5年個人3連覇、ホッケー(CF)で昭和4、5年連覇、スピードで昭和3、4年1万メートル3位と、3部門全てを牽引する八面六臂の活躍を見せた。下駄スケートは、卒業後も日本スケート連盟役員などを務め、戦後もスケート界を支えたこの重鎮の原点であった。

下駄スケートは戦後まで使われたが昭和30年代以降、スケート靴の普及に伴いその役目を終えたという。それでも昨年には下諏訪町の「諏訪の下駄スケートコレクション」がスケート文化普及の功績により国の登録有形民俗文化財に指定されている。この下駄スケートは単にもの珍しい遺物というだけではなく、新しい娯楽への人々の情熱や創意工夫、草の根のスポーツ熱など当時の庶民感情を想起させる貴重な資料だといえよう。体育会スケート部でも原点を確認する意味を込め昨年12月の創立100周年記念式典にこれを出陳し、現在は当館常設展示室に展示されている。

(福澤諭吉記念慶應義塾史展示館専門員 横山 寛)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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