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【KEIO Report】久保田万太郎から受け継ぐものは──「久保田万太郎記念資金」の終了と記念企画

2024/01/23

シンポジウム「久保田万太郎と現代」(2023年12月16日)より
  • 関根 謙(せきね けん)

    『三田文學』編集長、慶應義塾大学名誉教授

2023年は久保田万太郎没後60年にあたるのだが、慶應義塾の立場からすると「慶應義塾大学久保田万太郎記念資金」(以下「久保田資金」)の終了の年でもあった。

久保田万太郎は当時文壇の重鎮であり、演劇界の圧倒的な指導者で次々と話題作を手掛けており、現代俳句の新たな展開を導く創作者でもあった。戦後急速に発展したメディアにおいても、卓越した文芸のセンスによって茶の間の人々によく知られる存在だった。その業績は大きく、簡単な解説で済ませられるものではないのだが、長い年月を経て、その名前を知らない塾生も多くなってしまった。しかし、久保田万太郎の名を冠して、60年近く続いた記念講座(「詩学」と「現代芸術」)を受講した塾員は相当な数に上るし、図書館の「三田文学ライブラリー」は近代文学の貴重な資料を収集した日本有数のアーカイブとして塾内外の人々の利用に供されている。そして久保田万太郎が編集に携わった『三田文學』は110年の歴史と伝統を受け継ぎながら、営々と良質な文学の紹介に努め、新進の創作者の活躍を支援し続けている。これら慶應の文化的活動を支えてきた重要な資金が、久保田万太郎がその急な死の前年に公表した慶應義塾に対する全著作権の譲渡によって築かれてきたのである。

著作物の保護期間は没後50年(現在は70年)までとなっており、久保田万太郎の場合は2013年に著作権収入が終了した。久保田資金はこの半世紀の間毎年積み上げられ、総額は優に2億円を超えている。義塾に大きな貢献を果たした久保田資金の終了にあたって、万太郎への深い感謝を明確な形で残すため、担当常任理事・松浦良充氏を中心に、倉田敬子前文学部長をはじめ資金運営委員会のメンバーがさまざまな模索を続けてきた。そして最終的に2022年早春、文学部の小平麻衣子(国文)、平田栄一朗(独文)、西野絢子(仏文)、吉永壮介(中文)ら4氏と私(三田文學)が、この記念すべき企画を進めることになった。

その時点で久保田資金の残額は約500万円、最後の大切なお金を有意義に活用する企画が求められた。私たちは何度も討議を重ねて、記念企画の中核を久保田万太郎顕彰の出版物刊行に据え、併せて記念シンポジウムと特別展を開催するという3本の柱を立てた。特に久保田万太郎に関する大がかりな出版物は30年以上にわたって途絶えており、今回の刊行は単なる顕彰を超えた重要な文学史的意義を持つことになるのは明白で、その編集にあたるには相応の覚悟が必要であった。まず押さえておかねばならなかったのは、久保田万太郎を知らない世代がほとんどだという事実で、久保田文学の豊穣多彩な内容をわかりやすく総合的に紹介する方針が確認された。その上で久保田万太郎研究の現代の達成をしっかり伝え、かつこれまで注目されてこなかったような業績や逸話も丁寧に網羅していくことで意見が一致した。また著名な作家や詩人に万太郎をどう捉えているのかもエッセー風に書いてもらうことにした。こういう方針のもとでそれぞれの分野で活躍中の方々にご寄稿を依頼した。ご快諾いただいた30数名の方々は、日本の各界で目覚ましい業績を上げられており、まさに錚々たる執筆陣となった。出版を引き受けてくれた平凡社下中順平社長の熱意ある対応はありがたかった。担当編集者となったのは経験豊富なベテラン保科孝夫氏、そして文学部東洋史学専攻出身の進藤倫太郎氏。ここにも慶應の繋がりがあったのだが、この場を借りてお二人の丁寧な編集に感謝したい。

本書のタイトルを『久保田万太郎と現代──ノスタルジーを超えて』と決めたのは編集の最後の段階だった。戦前から戦中を経て戦後に至る厳しい時代、日本の近代の凄絶な進展の陰で、滅びゆく下町浅草の人情と文芸に限りない哀惜の念を抱いて、数々の名作を世に出してきた久保田万太郎の文学、その精神の純粋さは現代に受け継がれるという思いを込めて決めたタイトルだった。本書の刊行は10月25日、塾員の皆さんはもとより、多くの読者に愛される本となることを心より願っている。

久保田記念企画のシンポジウム「久保田万太郎と現代」は12月16日に三田キャンパス北館ホールで開催される(口絵参照、執筆時未開催)。小平麻衣子氏が司会を務め、前述書執筆者でもある俳人恩田侑布子氏、立教大教授石川巧氏、演劇評論家長谷部浩氏が講演し、塾生五十嵐幸輝君(文学部独文専攻)とその仲間の久保田作品の朗読劇も上演される。五十嵐君たちは原作を何度も読み合って討議し、理解を深めてきたという。万太郎の文芸精神が今の塾生に伝わる何よりの証左である。八面六臂の活躍をしてきた万太郎を記念するにふさわしい内容となることは間違いない。

特別展「久保田万太郎──時代を惜しみ、時代に愛された文人」は三田メディアセンター 1階展示室において11月28日から12月23日まで開催されている。慶應では過去2回久保田展を開催したが、今回は出品点数、総合性において突出した内容となった。三田メディアセンター所蔵の原稿や遺品をはじめ、万太郎の創設した文学座からは公演台本や写真、日本近代文学館からは関連する写真の数々をお借りし、万太郎の人生と文芸の歩みをわかりやすく紹介している。本展示で何よりも目を引くのは、三田メディアセンターの1階正面の展示室入り口に立っている万太郎の等身大イラストである。万太郎がにこやかに図書館利用者を手招きしているのだ。これはイラストレーターで万太郎俳句の熱心なファンである大高郁子氏の提供によるもので、本展示では万太郎を描く大高氏の優しい温もりのあるイラストが各種展示されており、たいへんに好評を博している。

私はこの企画に参加できたことを心から嬉しく光栄に思っている。この準備の間、万太郎の文学を再読し、その人生を辿った。準備が進むにつれ、私の心の中で万太郎の姿はますます大きくそして親しいものになっていった。等身大の万太郎イラストは思いのほか小柄だが、慶應に残された遺産は巨大だ。その精神はしっかり受け継いでいかねばならない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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