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ハーバード大学第30代学長就任式典──クローディン・ゲイ教授の横顔

2023/11/21

  • 巽 孝之(たつみ たかゆき)

    慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾ニューヨーク学院長

2023年9月28日(木曜日)の早朝、慶應義塾ニューヨーク学院のあるパーチェスからJFK空港へ向かい、一時間強でボストンのローガン空港に降り立つ。この日の夕方から翌日にかけて、近隣ケンブリッジで行われるハーバード大学第30代学長クローディン・ゲイの就任式典に参列するためである。

ゲイ教授は1970年にハイチ系移民の家庭に生を享け、スタンフォード大学で経済学を学び、1998年にハーバード大学で政治学博士号を取得。以後、スタンフォード大学で教鞭を執ったのちの2006年にハーバード大学政治学教授に迎えられ、翌年には同大学アフリカ系アメリカ研究教授も兼任。2018年からは同大学文理学部長として、スタッフの多様化と学生たちへの学際的教育、研究者の共同研究、教授陣の大学共同体への積極的関与を促進。コロナ禍の時代には大胆な財政改革で同学部の赤字を解消。

こうした手腕が評価され、1636年の創立以来、400年近い歴史を誇るハーバード大学において初めて、ウィルバー・A・カウェット記念政治学教授の冠を持つ黒人女性が新学長に指名された。かくして、本来なら伊藤公平塾長が出席すべきところ、スケジュールの関係上、米国東海岸に勤務する私が名代を務めた。招待された全世界180以上の大学及び学術組織の代表団のうち、日本からは他に東京大学を代表して理事・副学長の林香里教授と副学長の矢口祐人教授、東北大学からは副学長の山口昌弘教授が出席して記念行進に加わり、その模様はTV中継された。

ゲイ総長

慶應義塾とハーバード大学の関わりは長く深い。福澤先生は1890年に本塾大学部を開設すると、第20代学長チャールズ・ウィリアム・エリオットの薦めで、黒船の提督マシュー・ペリーの甥の子である英米文学者トマス・サージェント・ペリーを1898年に招聘している。

加えて1936年には慶應義塾長・小泉信三がジェイムズ・ブライアント・コナント第22代学長時代のハーバード大学300周年記念式典に参列し、理工系カリキュラムの充実に影響を受ける。2008年、塾長・安西祐一郎が企画した本塾創立150年式典には、ドリュー・ギルピン・ファウスト第28代学長名代が参列し祝辞を読み上げた。2015年には私自身が同大学ライシャワー日本研究所の特別講演に招かれた。このように、慶應義塾とハーバード大学は、本塾大学部開設以来130余年におよぶ親交を結んできたのだ。

就任式典は28日夕方、ファカルティ・クラブにおける各国代表団歓迎会と、メモリアル・ホールにおける芸術的前夜祭から、始まった。とりわけ学生たちの男性合唱団がクラシックばかりでなくタートルズの「ハッピー・トゥゲザー」を見事な編曲で歌いこなしており驚嘆。

参列した日本からの大学代表。右から著者、矢口祐人東大教授(副学長)、林香里東大教授(副学長)、山口昌弘東北大教授(副学長)。その左が小谷真理氏(文芸評論家)、左端が遠藤茜氏(東北大国際企画課)

翌日9月29日(金曜日)、就任式典本番当日の午前中にはシンポジウム「未来を展望する: 学問研究機関の未来」を聞く。司会の文理学部教授ロビン・ケルシーが提起する「いかに大学は信用を回復し政治的二極化を免れるか?」「エコロジー的変化、コンピュータ・サイエンス上の変化を踏まえると、学問研究教育上いかなる批判的思考が可能か?」「アファーマティブ・アクションの最高裁による違憲判定をどう思うか?」といった問いかけに対し、デザイン教育と建築学の講師ミーガン・パンザーノやアメリカ文学思想史教授ルイス・メナード、ジェンダー&セクシュアリティ研究の准教授ダーパ・ミトラ、神学部教授マシュー・ポッツらが、それぞれの立場から真摯に回答。大学の未来を考えるなら、全ての倫理的前提や仮説を批判的に吟味するのが急務であるという結論が導かれた。

このような準備運動と午餐会を経て、午後二時からの野外式典は前夜祭同様、多くのスピーチやパフォーマンスで始まったが、ゲイ新学長の就任演説「ハーバードの勇気」でいよいよクライマックス(https://www.harvard.edu/president/speeches/2023/courage-to-be-harvard/)。このころ天気が悪化したものの、彼女は冒頭「あいにくの雨ですが、原稿を省略するつもりはありません」と宣言し、家族への謝辞を連ね「いま私の立っているところから400ヤードも離れていない地点で、約400年前、4人の黒人奴隷がハーバード大学学長の所有物として暮らし働いていました」と語り始める。ゲイ教授自身は両親の代からのハイチ系の移民であるからアフリカ系アメリカ人の歴史を辿ってきたわけではない。だが、彼女は黒人奴隷制における排除の歴史とそれを克服する抵抗と反発の歴史とが、まさにハーバードという場所で密接に連動することを前景化したのだ。

そして彼女は、現在の大学に不可欠な“Why?”(なぜそうなのか)と“Why not?”(なぜやらないのか)という二大原理に焦点を絞る。前者が学術的探究の基礎を成す科学的態度である一方、後者は世界改革のために無理を承知で行動に移す実践的態度だ。だが、まさにその後者“Why not?”こそがこの就任演説の根本に迫る。

「私たちが勇気を奮い起こして“Why not?”と問いかけ、その結果、新しい思考法を新しい行動原理に連動させる時にこそ、ハーバードのこれからなりうる姿と世界になしうる行動の可能性を拡張することになるのです」。

細部にまでゲイ教授の修辞と論理が絶妙に絡み合ったこの演説では、ジョン・アダムズやジョン・ロールズ、W・E・B・デュボイスやラングストン・ヒューズといった思想史上、文学史上の偉人から自由自在に引用されたが、必ずしも言及されなくとも、マーティン・ルーサー・キングとジョン・レノン、そしてスティーヴ・ジョブズへのオマージュも随所に感じ取れたことを、明記しておこう。ハーバード新学長の問題意識が全地球的な大学教育の未来を切り拓くことを実感させる、これは実に洞察と展望に富んだ就任演説であった。

参列する筆者

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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