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【From Keio Museums】曾禰中條建築事務所による最初の慶應義塾関係設計図面

2023/06/23

慶應義塾塾監局管財部所葳
慶應義塾福澤研究センター所蔵

曾禰達蔵、中條精一郎によって開設された曾禰中條建築事務所は戦前最大最高の民間設計事務所と言われる。その代表作として挙げられるのが、読者もよく御存じであろう赤レンガの慶應義塾図書館(旧館)だ。同事務所の手がけた作品中で最初に重要文化財に指定され、いうまでもなく、慶應義塾のシンボルとして愛されてきた。同事務所の慶應義塾における作品は図書館を含め7棟が現存しているが、かつてユニコン像がバルコニーから塾生を見下ろした三田の大講堂のように失われた作品も入れると、実に30棟余りが同事務所によって設計された歴史がある。それはなぜだろうか。

6月27日より慶應義塾史展示館で始まる「曾禰中條建築事務所と慶應義塾」展では、現存する建物はもちろん、今は失われてしまった多くの建築にも視野を広げる。たとえば信濃町キャンパスは、同事務所が全体構想から校舎、病院の設計も手がけたが、木造だったため空襲で大部分が失われてしまった。日吉キャンパスも、グランドデザインは同事務所がまとめたが、曾禰と中條の死、そして戦争の影響で道半ばで終わったのだ。日吉と連動して、三田の大改造も進行していた。現在の慶應義塾の姿には、実は同事務所の影響が色濃く残っているといっても過言ではない。

今回の展示準備で、1971年に中條精一郎の子息國男の中條設計事務所から、塾史資料室(福澤研究センターの前身)が慶應関係の建物の設計原図──青図などの複写物ではなく、設計者が直接引いた実物の図面──を筒入りの状態で52本譲り受けた記録が発見された。この52本を管財部工務担当の協力によって探索し、1本ずつ確認したところ、空襲で失われた信濃町の多くの建物の図面をはじめ、かなりの建物の何らかの図面が残存していることが確認された。そして最も古い図面がこの木造洋風の校舎「第六館」の図面であった。日付は事務所が開設された1908年。竣工は翌年で図書館よりも3年早く、現在の大学院棟付近にあった(写真下絵葉書)。1939年に日吉に移築され藤原工業大学予科校舎となり、6年後に空襲によって失われる。

展覧会では、単に建物とその図面を紹介するだけでなく、なぜ曾禰・中條だったのか、特に慶應義塾との縁と思想的共鳴について考えてみたい。

(慶應義塾福澤研究センター准教授 都倉武之)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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