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【KEIO Report】マルタ・アルゲリッチさん、伊藤京子さんをお迎えして

2023/06/05

  • 池田 幸弘(いけだ ゆきひろ)

    慶應義塾常任理事

5月10日に三田にお2人をお迎えして、小さなコンサートを開催することができたので、以下はそのご報告である。

一緒に仕事をしている常任理事の岩谷十郎さんから、「アルゲリッチさんが来るかもしれないのですが、お手伝いお願いできますか」と言われたのは、いつのことだったか、あまりよく覚えていない。もちろん、2つ返事でお受けしたが、率直にいって私の最初の感じは「アルゲリッチさん? とてつもないスーパースターだけど、そんなことが可能なのだろうか。可能だとすれば、それはどのような形なのか」ということだった。それから、プロジェクト・アルゲリッチは始動し、塾内では広報室はもちろんのこと、関連する部門としては塾のアート・センターの全面的な支援を受けて、今般開催に至ったものである。

コンサートの中身については何度となく議論を重ねてきたが、アルゲリッチさんを総裁としていだく公益財団法人アルゲリッチ芸術振興財団の事実上の責任者である伊藤京子さんのご協力を仰ぎ、ソロ、デュオ、そして室内楽などさまざまな可能性が浮かび、そして検討の対象となった。伊藤さんにはこの間実際に三田キャンパスにあるピアノを試奏していただき、最終的に西校舎ホールでの開催となった。ピアノは持ち込まれ、シゲル・カワイのものが使用された。この場所は、ピアニストとしてはすでに故中村紘子さんや舘野泉さんが登壇されている。音楽専門のホールではないので、ステージ・マネジメントという観点からは難易度は高い場所であるが、関係者のご尽力によって、当日も含めて現場の実務ベースで問題も解決されていった。

今般の催事は、クローズドで、塾生、教職員、理事、評議員などが対象である。これは当初から予想していたことではあるが、オンラインでの受付は開始されるや、あっと言う間に埋まってしまい、規定数の座席は満席となった。

アルゲリッチさんについていまさら贅言を費やすのが、意味があるのかどうかはわからないが、以下簡単なご紹介である。

ブエノスアイレスの生まれで、同世代にはゲルバーやバレンボイムといったピアニストたちがいる。これらの方々は欧州から地理的には遠いところの出身なので、これらの俊才たちが群をなして現れたことになんらかの体系的な原因があるのかは、しばしば話題になるところ。アルゲリッチさんはウィーンで研鑽を積まれ、1965年開催のショパン国際コンクールで見事1位に輝いた。それからのご活躍は改めて述べるまでもない。近年では室内楽にも関与されていることもよく知られている。

彼女のピアノについて、一体何を語るべきだろう。しばしば指摘されるのは強靭な技術と幅広いダイナミクスに体現されるような、個性的なピアニズムである。それはもちろん正しい。彼女の前にはそもそも、技術的な難所というものが雲散霧消してしまったように感じる。難所は、最初からなかったように観念されてしまうのだ。

個人的には、アルゲリッチさんはポリーニやアシュケナージと並んで、私には輝ける星、あまりに眩しい存在という感じがしている。実年齢としてはこれらの諸氏は高齢といってよい年齢のはずだが、私にとってはいつまでも輝ける若い星であり続けている。これは最初に接したときのイメージがいつまでも続くためであろう。

デュオのお相手である伊藤さんは、日本を代表するピアニスト。東京芸術大学を卒業後、ヨーロッパにわたり、ブゾーニの国際コンクールで賞をとられている。アルゲリッチ財団でのご活躍はあまねく知られていて、アルゲリッチさんの名前を冠した音楽祭では、彼女をお呼びするだけではなく、若手を中心とした多くの演奏家が登壇している。大分にとっての地域振興としても機能しており、注目を集めている。アルゲリッチさんとは親交があり、今回の催事もお2人の親密なご関係なくして実現はなかった。当日も、演奏だけではなくお話しもして頂いた。

さて、今回のプログラムは、開演の少し前に知らされたところで、3曲。後半の1曲目はラベルの「水の戯れ」。そして、2曲目はやはり同じ作曲家の「マ・メール・ロワ」で、こちらは伊藤さんとのデュオである。どちらも素晴らしい演奏であったことは言をまたないが、ここでは冒頭に演奏されたバッハの「イギリス組曲第3番ト短調ガヴォットⅠ-Ⅱ(ミュゼット)Ⅱ」について述べてみたい。

丸腰でいきなり開始されたバッハはとても魅力的に響いた。とくに中間部の響きは格別で、ソフト・ペダルも使われ、普通はあまり強調されないバスの音、あるいは内声部の音などもよく聞こえていた。それがとてもユニークな効果をあげていたことは否定できない。バッハやスカルラッティの曲でピアニスティックな効果が上がるものはいくらでもあるが、それらはやはりピアニストによって発見されるという側面もある。このガヴォットのピアノにとっての特色は彼女によって発見されたという感じもした。あたかも万華鏡のようなバッハ。さまざまな光と影、そして色が感じられる演奏で、後半の2曲の印象とあいまって、音質の多様性は観衆に強い印象を与えたに違いない。してみると、結果論ではあるが、全体としては印象派風を強く感じさせるコンサートとなったわけで、これは演奏家の戦略が功を奏したのかもしれない。

会場を去るにあたっては、見知った教職員の顔も多くお見受けした。どのお顔も感銘と満足に溢れており、開催にさいして若干のお手伝いをした者としては、ようやく安堵の胸を撫で下ろした。

塾の出身で音楽評論の領域で活躍された、故野村光一さんは、初期の段階でアルゲリッチさんにインタビューを試みたとうかがった。古の時代における塾関係者とのご交流である。

今回の企画は、慶應義塾の主催、公益財団法人アルゲリッチ芸術振興財団のほか、公益財団法人文字・活字文化推進機構の共催という形で開催された。開催にあたり、同推進機構の町田智子専務理事(塾員)のご協力にもよった。最後になったがそのことを記して、改めて関係者に謝意を申し述べる次第である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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