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【From Keio Museums】戦前の慶應義塾と旧制高校の寄宿舎

2023/04/07

縮尺1/18(慶應義塾史展示館常設展示)
慶應義塾日吉寄宿舎の一室(1937年頃)
縮尺1/18(慶應義塾史展示館常設展示)
旧制高校の一般的な寄宿舎の一室(1935年頃)

破れた帽子と傷んだ衣服いわゆる弊衣破帽―にマントや袴、和室に布団を敷きっぱなしの万年床、障子は破れ、壁には歴代住人の落書き。岩波文庫や総合雑誌が散らばり、隙間風に耐えつつ火鉢で暖を取る。紫煙を燻らせ国家天下を論じ、時に窓から用を足す。デカンショ節を高唱して街に繰り出すストームをはじめ、独特な習慣や秩序があり、教師の介入を許さない神聖な空間とされたのが戦前の旧制高校の典型的な寮生活だ。

これの対極を行ったのが義塾の寄宿舎であった。バンカラ文化とは、わざとらしく貧書生を装い実はエリートとしての地位を誇示する歪んだ権威主義と見て背を向けてきた。福澤の時代より衛生面を重視した清潔な建築で、早々に洋室とスチーム暖房を導入。住空間と勉強部屋を分け、教員も塾生と同居していた。食事の時は塾長以下が大食堂に和気藹々と集って交流した。このような寄宿舎が三田山上にあった頃の寮生で、のちに法学部長となった板倉卓造は、「慶應義塾の寄宿舎は慶應義塾そのものである」と書いた。合理的に勉強しやすい環境で暮らし、明るく社会的常識を涵養する空間が義塾にとっての寄宿舎であったのだ。

その伝統に連なるのが1937年竣工の日吉寄宿舎(谷口吉郎設計)だ。洋室の完全個室で全館床暖房。共同ながら水洗トイレに大展望の浴場を備えた行き届いた設備は東洋一と謳われ、社交的でスマートと称される塾生を生み出した。世間では軟弱と言われがちな慶應らしさは、実は強固な反骨精神の反映なのだ。

この2つの模型、旧制高校の方は、多くの寮の写真集からその特徴を集約して作った一室2人部屋に6人が集って語り合う場面(写真下)で、日吉の方は、現存する日吉寄宿舎の建物に何度も通って作り込んだものある寮生の個室を友人が訪ねてきた場面(写真上)である。あまり目立たないが、慶應義塾史展示館内の最も手の込んだ展示物の1つである。

(慶應義塾福澤研究センター准教授 都倉武之)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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