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【社中交歓】達磨

2022/10/21

高崎だるま市

  • 堤 志行(つつみ しこう)

    西毛三田会会員・1973法

新年早々朔日・2日の両日、〝日本で一番早い高崎だるま市〟が駅前西口大通りを全面交通規制して行われ、今年も40万人の人出でにぎわった。数年前までは駅前より5キロ程西方、丘陵地帯にある黄檗宗(おうばくしゅう)少林山達磨寺で行われ、七草の正月6日夕方から7日にかけて境内参道は百軒程の露天商やだるま屋さんで大盛況であった。その上さらに、日にちを早め駅前でも市を開催することになった。

何故、高崎のだるまがこれ程有名になったのだろう。事のおこりは江戸時代末期、天然痘の流行が度々あり、民間の伝承により赤い達磨に効能があるとされ地域に広まったようだ。また、市内豊岡村の山縣友五郎という人が埼玉から人形製作の技術を故郷に持ち帰り、現在のデザインになったとされている。冬農閑期の副業として晴天が続き温度が低く乾燥している上、名物のカラッ風が吹く気候風土が屋外作業に適していたのではないか。全国有数の養蚕地帯で、年度により大きく収入が変動する農家では特に縁起をかついだのであろう。

達磨さん、教えて下さい

  • 川野 泰周(かわの たいしゅう)

    臨済宗建長寺派林香寺住職、精神科医・2005医

10月5日は達磨忌。あの「だるまさん」のモチーフになった菩提達磨(ぼだいだるま)、ブッダから28代目にあたるインドの人で、中国に禅宗を興した初祖の命日です。彼は生前書物を遺していませんが、弟子たちが語録をまとめた「二入四行論(ににゅうしぎょうろん)」では禅の修行のあり方を、知識から入る理入(りにゅう)と、実践から入る行入(ぎょうにゅう)の二要素で説いています。禅の知識をただ学ぶだけでは、かえって心は無縄自縛に陥ってしまう。反対に、知識なくむやみに動き回っても、心は妄念から解放されない。智恵とそれに基づく修行の実践が伴い初めて、生きる苦しみからの解放が得られるという教えです。

私自身、精神科診療と自坊の護寺に携わる中で達磨さんの教えに学ぶ日々ですが、それを体現するのは至難の業。あの人形のように、手足が腐って無くなってしまうまで坐禅をし続けることは難しそうです。だから時々、掛け軸の達磨さんに尋ねるのです。「これからの時代はもう少し、『優しくて易しい』坐禅も良くないですか?」

気をそろえてだるまを運ぶ

  • 大谷 一途(おおたに かずみち)

    慶應義塾幼稚舎教諭

「良い子になろう 気をそろえ」『幼稚舎の歌』の歌詞の最後の部分である。この言葉になぞらえてか、幼稚舎の運動会のクラス対抗種目は、ほとんどが数人で協力し合って走る競技である。その1つに、3年生の「だるま運び」がある。担架の幅を広くしたような台の上に、大きなだるまを乗せて走り、旗のある所を回って、バトンゾーンに戻る。

だるまは巨大で、4人がかりで台を持って走るのだが、落ちたら、子どもたちで、台に乗せるのは難しい。ゆらゆらするだるまを落とさぬように、4人が気をそろえて運ぶ。旗を上手く回るのは至難の業で、それぞれに研究して上手く、速く回ろうとする。それぞれが、自分の役割を果たしながら、4人が息を合わせないと上手く運べない。正に独立自尊と共生他尊が同居する競技である。

優勝したい、担任からのご褒美の鯛焼きをもらいたい。そんな煩悩?を知ってか知らずか、台の上のだるまは、小躍りしながら、今年も運ばれるのであろう。

達磨山が見続けた景観

  • 杵島 正洋(きしま まさひろ)

    慶應義塾高等学校教諭

修善寺の西、西伊豆スカイラインを緩やかに登っていくと、最高地点982メートルの分水嶺に到達する。この主峰が達磨山である。座した達磨大師に見立てたとの説もあるが、修善寺側から見る稜線はなだらかでその印象はない。頂上からの眺望は絶景で、南西から西は駿河湾と沈む夕日を、北は駿河湾の奥にそびえる雄大な富士山を一望できる。

達磨山は今から100万年前頃に活動した火山である。伊豆半島は南方の島が北上し本州に衝突したもので、当時は衝突の直前、狭い海峡で隔てられていた。達磨山は粘性の低い溶岩を流出して成長し、やがて伊豆と本州の結節部分となる。この頃、箱根も富士もその姿はまだなく、達磨山頂からは丹沢の山並みが一望できただろう。やがて達磨山の活動が鈍化する60万年前頃から、箱根と富士が成長し始める。箱根山は大噴火を繰り返し、カルデラを擁する複雑な山容となった。富士山は元々あった火山を飲み込み、今も成長を続ける。いち早く活動を終えた達磨山は、景観が刻々と変わりゆく様を、静かに見守っている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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