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【From Keio Museums】紙面の奥に流れる生きられた時間

2022/06/20

ハンネ・ダルボーフェン《環境〈80〉: 今日(ヴァルター・メーリングのために)》(部分)1980年
スタンディング・ポイントⅢ 〈ハンネ・ダルボーフェン〉展出品作品
所蔵▶ヒロセコレクション 撮影▶村松桂(株式会社カロワークス)

1980年10月5日、あなたは何処で何をしていただろうか。まだ、生まれていなかったかもしれない──。

慶應義塾大学アート・センターでは、自分たちの生きる時代のアートに触れてもらう機会を大学で演出すべく、毎年、現代美術の展覧会を開催している。今年は戦後ドイツを代表するアーティストで、独自の作品世界を追求したハンネ・ダルボーフェン(Hanne Darboven, 1941-2009)の作品を展示している(〈スタンディング・ポイントⅢ : ハンネ・ダルボーフェン〉展 5月9日- 6月24日)。

出品作品の一つ《環境〈80〉: 今日(ヴァルター・メーリングのために)》を見てみよう。壁には139枚のシートが整然と並んでいる。紙面を埋めているのは、数字やドイツ語、波形の線だ。一体これは何を表しているのか。一見しただけでは、分からない。途方に暮れそうになる。しかし、フォーマットを守って淡々と書き続けられる手書きの文字や波線には、これを一つ一つ書いたアーティストの姿が、その手書きの仕事の時間が彷彿とする。シートの一枚一枚を追いながら、気がつけば彼女の費やした時間の流れに、身を重ねて行くことになる。図版に写っている部分では、1日目、2日目……と日にちが数えられている。それは279日目で途切れて、テキストの書き写しに取って代わられる。1980年1月1日から数えて279日目は、10月5日──西ドイツの議会選挙の当日だった。この作品はこの選挙の日を軸にしながら、1980年という年を作品全体で表している。作品に何が描かれていて、どのような構成になっているか、読み解いていく作業は暗号を解くようにスリリングで創造的だ。そして、139枚のシートを通して見ると、そこには他の形では伝えられない、ハンネ・ダルボーフェンの生きた1980年が描き出されているのである。淡々と見える画面の裏には赤い血の流れるハンネの日々が息づいている。それ故、私たちはふと、自分にも問いかけることになる、1980年10月5日、私は何処で何をしていただろう──。

(慶應義塾大学アート・センター教授 渡部葉子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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