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【ヒサクニヒコのマンガ何でも劇場〈特別編〉】動物との付き合い方

2021/09/13

  • ヒサ クニヒコ

    漫画家・塾員

人間と動物との付き合い方を考えさせる報道が相次いでいる。一番大きな騒ぎは、コウモリ由来のウイルスが人間社会をパニックに陥れたと考えられる新型コロナ騒動だろう。それもウイルスを持ったコウモリやセンザンコウが食料として市場に出ていたのではないかと余計にセンセーショナルに報道された。

日本ではツキノワグマやヒグマが街中に出没して射殺されたり、シカやサルによる農作物被害がよく報道される。また、ペットとして飼われていた巨大なニシキヘビやイグアナが脱走して騒ぎになったり、外来種のカメやザリガニが繁殖したり、タイワンリス、アライグマ、キョンなどの繁殖も報道される。農林水産大臣が辞任に追い込まれた汚職事件は鶏卵業者による賄賂とされるが、その背景には国際的な動物愛護運動があったりもする。家畜といえども、不必要に苦しめてはならない、ブロイラーのような過密な飼育は禁止すべきだとの海外からの圧力に手加減してくれということだったという。

野生動物から家畜などの飼育動物、ペットや動物園の動物、医療機関や化粧品業界などの実験動物、長年食料として利用されてきた大量の魚たち、そんな生き物たちとどんなルールで付き合っていけばいいのか、人類共通のベーシックな考え方はできるものなのだろうか。各地域や民族、宗教による違いも大きいと思う。そんなことも踏まえて、ちょっぴり考えてみたい。

そもそも人類だって野生動物の一員だった。動物や果実や魚や貝など何でも食べて、捕食動物には食べられないように気をつける。ゾウやサイやウシやウマなどは食用としただけでなく毛皮や骨も生きるために利用した。そのうち、槍や弓で苦労して狩りをするだけでなく、自分たちの管理下で飼育繁殖させ、安定的に肉やミルク、毛皮などを利用するようになった。おまけに、大人しいとか毛が長いとか肉が付きやすいなどの性質をもった同士を掛け合わせ、品種改良という手段までもって、動物をコントロールするようになった。当然その過程で、人類にとって有用な動物、害のある動物などの価値判断が付与される。

ヒツジ、ヤギ、ウシなど肉から毛皮、ミルクまで利用できる動物、ウシやウマ、ロバなど、肉や毛皮だけでなく使役動物としても役に立つ動物、それらを利用することによって、人類は人口を増やし、大きな丸太や石も運べる動力を入手し、文明を作り上げた。大きな文明の誕生しなかった世界でも、北米平原インディアン(ネイティブ・アメリカン)がバッファロー、オーストラリアのアボリジニがカンガルー、アフリカ大陸内陸部ではゾウなどの野生動物が人類の命をつないでいた。大洋の島々では貝や魚、イルカやクジラも生活の糧だった。

そんな歴史の中で野生動物や家畜の命について深く考える文化は実は育ってこなかった。絶滅しそうな野生動物がいることに気が付いた人々の間で、20世紀になってから起こってきた運動なのである。野生ではない動物については、家畜だけでなくペット化されたイヌやネコ、実験動物、動物園の飼育下の動物にまで、その命の価値が問われるようになってきた。

代表的な動物保護の動きの1つが日本の捕鯨禁止を求めるクジラ保護運動だ。NGOの活動はファンディングで成り立っている。太地(たいじ)町のイルカ漁の血まみれの映像や自分たちの過激な捕鯨阻止活動を宣伝して寄付を集める。食文化の違いという説明があるが、イヌやネコを食する文化に対しては日本人も嫌がる人が多かろう。今回問題になったコウモリはどうだろうか。

日本での象牙の取引禁止を求める運動も活発だ。ハンコや箸などの需要は減ったが、根付や三味線の撥(ばち)など伝統文化とのせめぎあいも考えさせられる。しかし今でも象牙目的のゾウの密猟は絶えることがない。中国では象牙の需要だけでなくサイの角も漢方薬として絶大な人気がある。サイはほとんど絶滅の寸前といっていい。数が減るとサイの角の値段が上がり、ますます狙われることになる。フランスでは博物館に展示されていたサイの剝製の角まで盗まれたほどだ。ヒョウやトラなどの毛皮も狙われる。世界的な毛皮追放運動が功を奏して、毛皮目的の密猟は減ったが、ミンクやテンなどの毛皮目的飼育は続いている。野生の動物の密猟が収まれば、家畜化した動物の命はどうでもいいのかも問題になっている。そんなうねりの中で、家畜の快適な生活環境を守る、屠殺の場合は苦しまないようにする、などの国際ルールができつつある。

そこでターゲットにされたのが動物園での飼育動物の存在だ。檻に一生閉じ込めて可哀そう、何のために見世物にする必要があるのか、そんな声に押されてサーカスやイルカショーが欧米で廃止に追い込まれている。

野生のゾウやサイが減って初めて保護活動が起きたが、今度は動物が可哀そうだからという運動だ。動物園はその存在をかけて、猛烈に必要性をアピールし始めた。野生よりはるかに恵まれた環境で大切に扱われ、繁殖も行われ、絶滅危惧種の存続のためのストックヤードとしての動物園の役割も強調している。なにより、こんなに多様な動物を育んできた自然の環境を知ってもらうための役割を果たしているんだと。動物実験に使われる動物の運命はさらに過酷だ。わざと骨折させられたり癌にされたり化粧品を塗りたくられたりする。その物質が人間に害がないかを調べたり新薬のテストに使われたりする。可哀そうだという声と人類の幸せのためだという声のせめぎあいがここでも起きている。

20世紀に始まった動物愛護運動は、今や地球の生態系を守るべきだ、という大きな運動になりつつある。無尽蔵に魚を供給してきた海も、ルールを守らない国による乱獲が大問題になっている。魚群探知機やGPSにより不漁知らずといっていい。その海に流れ込むプラスチックゴミも最近の大きなテーマになっている。地球温暖化問題も含め、大きなスケールで地球を考えないといけない時代になってきた。それだけ人類の活動の影響が大きいからだ。新型コロナ騒ぎを契機に、野生動物との接点が問題になったが、日本列島もサルやクマやシカと共存できる穏やかなルールを確立してもらいたいものである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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