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第7回 慶應義塾のオリンピアンたち/冬季五輪編
2021/02/12

真冬に輝いた義塾オリンピアン
1924年シャモニー・モンブラン大会に始まった冬季五輪に、日本は28年サンモリッツ大会でスキー選手6人を派遣し、初出場を果たした。その後、32年レークプラシッド大会でスケート、続く36年ガルミッシュパルテンキルヘン大会でアイスホッケーがそれぞれ初出場。両大会の初出場選手には塾スケート部の名前も見られる。今回は塾と冬季五輪の縁を振り返ってみよう。
塾生がスケートを始めたのは明治40年代頃、冬の諏訪湖に愛好家が集まって楽しんだという。その後、大正10(1921)年頃までにスケート部の前身となる三田スケート倶楽部の活動が始まると、スピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーに親しみ、各種大会へも出場するようになる。そして昭和2(1927)年に体育会に加入、スケート部が誕生した。
当初、種目は未分化で、金子諭吉のようにすべての部門で活躍する選手もいたが、次第に専門化していく。とりわけフィギュア部門は優秀な選手を続々と輩出し、戦前の学生スケート界で圧倒的な存在感を発揮した。日本学生選手権に昭和3~13年まで団体成績で10連覇、この間個人でも金子諭吉、帯谷竜一、長谷川次男、渡辺善次郎が優勝したのである。当然この時期に参加し始めた冬季五輪とも縁があり、アメリカ・ニューヨーク州のレークプラシッド大会で帯谷竜一は日本最初の五輪フィギュアスケート選手の1人となった。続くガルミッシュパルテンキルヘン大会には長谷川次男、渡辺善次郎が出場し、両大会合わせて出場6人のうち3人を塾生が占めたのである。
スケート部は全体として北海道・東北等の自然環境で練習してきた部員は少なく、大正15(1926)年神奈川県鶴見の花月園に誕生したリンクで長谷川次男も渡辺善次郎もスケートを習い始めた。当時幼稚舎6年生だった渡辺はたまたま滑りに来ていたところ、練習する金子や帯谷らに会い、これから毎日リンクに来て練習するように言われ、本格的に競技を始めたという。

アイスホッケーも創部まもなく黄金時代を迎えている。日本学生選手権を昭和4~5年に連覇、8~10年に3連覇を達成したのである。そして翌年にはガルミッシュパルテンキルヘン大会に、フォワードとして学生選手権3連覇の中心を担った藤野正彦、亀井信吉、古屋健一の3人を送り込んだ。代表メンバーの過半数を満州、北海道の選手が占めるなかでの選出であった(大会はイギリスとスウェーデンに敗れている)。藤野家は3兄弟でスケート部に在籍し、部の運営面や資金面でも大いに貢献したという。ほかにも部員家族の支援があり、これによりブレードや防具など高価な輸入品を使って存分に練習できたことは黄金時代を築く上で欠かせない条件であった。その後、幻となった1940年の札幌大会にも第1次候補として堤正夫、小菅利雄、大野寛が選ばれている。
ガルミッシュパルテンキルヘン大会にはスケートの総監督として草創期に選手としても活躍した平林博も参加しているが、スピードスケートは戦前に五輪出場が叶わなかった。部員は東京でインドアリンク育ちが大半なため、アウトドア出身の選手に対して脚力の面で不利だったという。
戦後、塾から初めて冬季五輪に出場したのは1968年グルノーブル大会の丸山仁也(滑降)で、これは塾のスキー種目として初の五輪出場でもあった。
塾のスキーは山岳部の雪山登山の訓練に端を発するが、これとは別にスキーを楽しむ目的で大正14年、三田スキー倶楽部が誕生。やがて彼らが競技スキーに発展し、昭和9年に体育会加入、スキー部が誕生した。この後、1972年札幌大会には大杖正彦(滑降、大回転)、岡村富雄(クロスカントリー)が出場、大杖は大会公式ポスターのモデルにもなった。また同大会にはスキー部ではないが、台湾代表として王正徹も出場した。
スケートではその後1980年レークプラシッド大会に五十嵐文男(フィギュア)、1992年アルベールビル大会と1994年リレハンメル大会に宮部保範(スピード)、2014年ソチ大会に高橋成美(フィギュア)が出場している。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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横山 寛(よこやま ひろし)
慶應義塾福澤研究センター研究嘱託