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【ヒサクニヒコのマンガ何でも劇場〈特別編〉】不要不急

2020/09/08

  • ヒサ クニヒコ

    漫画家・塾員

最近コロナのおかげで「不要不急」という言葉がそこら中に飛び交っている。「そのお出かけは不要不急ではないですか?」「不要不急な外出は控えてください」「その会議は不要不急ではないですか?」「その買い物は不要不急では?」いろんな物ごとの価値基準が「不要不急」という物差しで測られるようになってしまった。

不要不急とは、とにかく今急いでしなくていいよ、後回しにして構わないよ、ということだろう。などと考えていたら政府が緊急事態宣言とかを出して、その中で不要不急とは何かを例示してくれた。曰く、人が集まることは原則禁止。デパートの地下の食料品売り場は必要だから営業してください。でもデパート本体は営業自粛をお願いします。といった具合。書店はいいけど古書店は自粛、スーパー銭湯やサウナは自粛だけど、銭湯は公衆衛生上必要なので営業してください。ライブハウスや映画館、劇場、寄席、スポーツ観戦、コンサート、展覧会、テーマパーク、その他、人が集まりそうな各種イベントが軒並み自粛と相成った。学校も不要不急なのかお休みに。図書館、博物館、美術館、動物園、水族館といった公共施設も休業。不要不急の旅行はしないでください、通勤も控えて家でできる人はテレワークしてください、こんなお達しのおかげで社会生活ががらりと一変した。

まず通勤電車が本当にがら空きになった。不要不急の通勤がいかに多かったということなのかとびっくり。パチンコ屋さんや、居酒屋などの飲食店がオープン自粛。書店は開いていてよかったはずだったが大型書店が入るデパートや駅ビルが軒並み営業自粛で営業中止。ヨドバシカメラやビックカメラのような量販店も営業自粛。食料品店以外ほとんどのお店が閉まっているという不思議な街になっていった。

さて、この不要不急の自粛生活は、元々引きこもりで自宅作業の多い漫画家の生活にはどんな変化を与えたであろうか? というか、普段格別意識もしていなかった生活が初めて見えてきた。引きこもり気味といっても、なんだかんだと結構出かけていたことにも気付かされた。絵の審査やその表彰式、図書館でのお話、NGOで手伝っているアフリカの支援団体の会議、いくつかの評議員をやっている団体の評議会、趣味の団体の例会、打ち合わせや会食……ほかにも展覧会や友人の個展、映画やイベントなど、数えればきりのない用事がちょこちょこ入っていて、結構お出かけをしていたのである。血圧の薬をもらいに行ったり歯科医にも通ったりしている。こんなスケジュールの中で不要不急じゃないものと言ったら、血圧の薬と歯科医の治療ぐらいだろうか。

そして、不要不急であるとみなされ、人が集まることはすべて自粛するといったムードの中で、ほとんどの予定が無くなり、文字通り引きこもりになってしまった。自宅で書類だけ見て判子を押して送り返したりすれば会議をしたことになったりするらしい。ちょっとした会議や打ち合わせなどでも、出かけたついでに書店に寄ったり、ステーショナリーを探したり、プラモデル屋さんをのぞいたり、時間があったら映画を見たりといった、不要不急だった時間がみんな飛んでしまったのである。

一方、本やプラモデルならアマゾンで買えばいいし、映画を見たければ映画館の代わりにネット配信でいくらでもいろんなもの見られるじゃない、と言う時代でもある。確かに自分の既に知っている本や模型をピンポイントで買うには、アマゾンやヤフーはうってつけだ。すぐに届けてくれるし、昔の本の取り寄せの不便さとかを知ってる世代には奇跡のような早業だ。映画だって、スクリーンとは違うけど、何だって見ることができる。事実、この自粛期間にどれだけ映画を見たことか。昔映画館で見た映画も、じっくり自宅で見直すといろいろと感慨深い。戦後にアメリカ映画の洗礼を受けた世代としては、特に西部劇が興味深かった。脚本や設定の時代感覚が、アメリカ先住民に対してこれでもかというように差別的だったり、逆に映像としては先住民の文化を丁寧に扱っていたり、ちぐはぐ加減が何とも言えなかった。南北戦争後のアメリカ西部開発は、白人が銃を持って所有者のいない土地をわがもの顔に開拓するお話で、アメリカ・インディアンはコヨーテやオオカミ、バッファローと一緒で荒れ地に暮らす障害物に過ぎなかったのが皮膚感覚で伝わってくる。ネットで映画を見るというのは、確かに映画館にかかっていないような無数の映画を検索できるので、これは新発見だった。しかしこの新発見が運動不足を招き、いわゆるコロナ太りの原因になるとはその時は気が付かなかった。コロナ禍はとんでもないところにも及ぶのだ。

たまっていた本を読んだり、山ほど箱の積んであるプラモデルの中身を見たりも、最初は楽しかったけれど、どうしても刺激が少ない。知らないものに出会うわくわく感が乏しいのである。わくわく感の大部分は本やプラモデルを買うときに消費してしまうものらしい。特に古本屋さんとか文房具屋さん、骨董屋さんなどをのぞけないのはつらかった。自分の楽しいこと、興味のあることって、結局不要不急の中にくくられるものばかりなのにも気が付いた。政府の言う不要不急も、観光旅行や観劇やパーティ、スポーツ、コンサートと楽しいことばかりだ。人は楽しいところに集まるのだ。これでは「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」「パーマネントはやめましょう」といった戦時中の自粛とおんなじだ。しかも自粛警察まで現れて同調圧力をかけてくるといった、いやな空気も充満して来たりしている。

不要不急ではないからと歯科医に行っても、周りが全部自粛で本屋さんも文房具屋さんもお蕎麦屋さんものぞけなかったら、ただ歯が痛い目にあっただけで、一日が悲しい思いだけになってしまう。いかに不要不急なものたちが僕たちの生活に必要で潤いを与え、生きている喜びを与えてくれているものかが良く分かった自粛要請でもあった。自由にどこにでも行けて人と会うことができる、それが当たり前の社会であってほしい。ビデオでいくら映画が見られても、自粛が終わったら映画館も飲食店も古書店もプラモデル屋さんもみんなつぶれてなくなっていたらこんなにショックなことはない。このような文化にこそ自粛を要請するならきちんと補償して大事にしてほしい。そんな国であってほしいと思うコロナ禍な日々であった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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