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遠藤周作編集長の贈り物

2020/08/13

『三田文學』2020 年夏季号
  • 関根 謙(せきね けん)

    『三田文學』編集長、慶應義塾大学名誉教授

遠藤周作未発表小説「影に対して」全文掲載の『三田文學』夏季号は予約段階で完売となり、ただちに増刷に着手した。刊行前の予約殺到は私が編集長を務めてからもちろん初めての経験だ。未発表遠藤作品の完全な形での発見という衝撃はあまりにも大きく、間違いなく文学史的な事件と言えよう。

遠藤周作は本塾文学部卒の俊才で、在学中に評論の執筆を開始し、戦後すぐ『三田文學』に登場した。卒業後、戦後初のフランス留学生となり、帰国後処女作『アデンまで』を『三田文學』に発表、翌1955年には『白い人』で芥川賞を受賞した。爾来作家として目覚ましい活躍をし、『海と毒薬』『沈黙』など多くの傑作を生み出した。神の眼差しと人の生き方を探求する真摯な作品群は、現代日本文学の到達した重要な高みを示している。一方で狐狸庵先生の名で発表した軽妙洒脱なエッセイも広く親しまれており、多くの熱烈なファンに読み継がれている。弊誌の編集にも遠藤は長く携わっており、1968年には編集長に就任して、戦後第五次『三田文學』をリードし大きな業績を残した。

「影に対して」は遠藤周作が父の仕事の関係で旧満州の大連で過ごした少年時代を背景に、時代を経て今に生きる主人公の実際の暮らしを見つめながら、父との葛藤と母への深い情念を描く、作者の魂のこもった純文学作品である。1923年生まれの遠藤周作は3歳の時に大連に渡って10歳までの多感な時期を彼の地で暮らし、帰国する頃には父母の離婚を経験している。本作では実体験を基に、現実の生活を守る職業人の父と、音楽を通して常に人生の質を問うてきた母の思い出が現在の自分と交差する。主人公は「勝呂」、これは『海と毒薬』を始めとする一連の作品で主人公に使われる人物名であり、遠藤自身の強い思いを彷彿とさせる。タイトルの「影」とは、生きている限り離れることのできない自身の影に相違なく、そこに色濃く刻まれた父母の姿と真っ直ぐ向かい合う作家の覚悟が読み取れる。「生活」を象徴する父と「人生」の質を象徴する母、遠藤文学の厳しい内省が印象深く表現された秀作である。

『三田文學』2020 年夏季号

本作の発見については、不思議な巡り合わせがあった(弊誌今号掲載、遠藤周作文学館学芸員川崎友里子氏の寄稿参照)。文学館は2000年に設立され、その時に遠藤周作の生原稿や書簡など3万点余りが遠藤家から寄託された。資料の調査整理は粛々と進められていたのだろうが、今年の夏から始まる創立20周年企画展にあたって、未整理だった資料の調査をさらに進めたところ、本作の生草稿2枚と遠藤周作秘書による清書原稿104枚が発見されたのだ。それは原稿用紙の裏に鉛筆で細かく書き込むという、純文学作品を執筆する際の遠藤周作の書き方そのもので、秘書の清書原稿には遠藤周作の修正の手が明らかに残されていた。川崎学芸員は驚愕と興奮のうちに詳細な調査を行い、それが間違いなく未発表作品であることに確信を持ったという。推定される執筆時期は1963年以降で、遠藤編集長時代前後の可能性がある。半世紀も眠っていた作品ということだ。発表されなかった理由を含め、今後の研究が待たれる。ちなみに、この企画展のタイトルは「遠藤周作珠玉のエッセイ展─〈生活〉と〈人生〉の違い」で本作のテーマと期せずして合致していた。遠藤周作の思いが20周年の文学館に大きな贈り物として届いたのだ。

『三田文學』の掲載誌面

未発表作品発見の知らせは遠藤周作の愛弟子加藤宗哉氏(弊誌元編集長、今号に解説執筆)に直ちに伝えられ、ご子息の遠藤龍之介氏の了解の下、加藤氏から弊誌での掲載・公表が打診された。編集部に沸き起こった熱気の凄さはうまく表現できない。それは夏号原稿締め切りが過ぎた5月下旬のことで、本来変更不可能な時期だったが、私たちは入稿直前の夏号の骨組みをすぐさま根本的に変えて、本作を誌面の中核に据えた。遠藤周作未発表作品となれば、どんな大手の文芸誌もすぐ飛びつく話なのは想像がつくと思う。しかしメディアとして選ばれたのは私たちの『三田文學』なのだ。これは遠藤周作が情熱を注いだ雑誌こそ発表にふさわしいと関係各位の想いが一致していたからに他ならない。そういう場に居合わせたことを、私たち編集部一同、たいへん光栄に思っている。

最後にもう1つ不思議な縁を。周作少年の暮らした大連に、私も中学生時代の3年間を過ごしていた。周作の30年後、まだ国交のない中国に私の父は日本語教師として一家転住したのだ。文革開始で帰国を余儀なくされたが、あのまま残っていたら今の私はいない。ずいぶん無謀な父だった。大連は私にとっても忘れられない街なのだ。住んでいたのは、遠藤周作旧宅から徒歩10分ほどの洋館で、すぐ近くには河本大作の旧邸もあった。「影に対して」で描かれる街並みも地名も、自分の記憶に重なっていき、私は胸がいっぱいになった。50年を経て届けられた編集長のプレゼント、私にはそう思えてならない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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