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第3回 慶應義塾のオリンピアンたち/競走部──塾出身の韋駄天たち

2020/07/27

ベルリン五輪4×100m リレーメンバー 左から2人目が鈴木聞多(鈴木隆之氏提供)
  • 横山 寛(よこやま ひろし)

    慶應義塾福澤研究センター研究嘱託

日本人の初めて出場した五輪が1912年のストックホルム大会で、その種目が陸上競技のマラソン(金栗四三)と短距離(三島弥彦)であったことはよく知られている。以来陸上は日本でも五輪の中心的な種目と目されてきた。一方、義塾では明治19(1886)年の陸上運動会開催以来、定期的に運動会が行われていたが、競走部の正式誕生は意外に遅く、大正6(1917)年のことであった。そうしたなかで1920年のアントワープ五輪において慶應義塾のオリンピアン第1号となったのが競走部に在籍する益田弘である。

益田は幼稚舎を卒業後、普通部時代から競走部で活躍し、水泳やラグビーも水準以上の万能選手だったという。純粋の三田っ子で、「たぬき」のあだ名で知られた義塾の名物男であった。父・英作は、三井財閥の益田孝の弟で、実業家・数寄者として知られる一方、スポーツも好み、大いに息子を支援した。それゆえいまだ義塾には十分な陸上競技施設のない時代に、益田は目黒の自宅に設けられた運動場で槍投げなどの練習を重ね、五種競技の選手として五輪出場を勝ち取ったのである。しかし五輪本番では直前の練習で脚部を負傷し、途中棄権した。

その後、大正15(1926)年に荏原郡矢口村(現大田区)に義塾の新田運動場が開設され練習環境が整い、競走部も有力選手を輩出し始める。1928年のアムステルダム大会には三木義雄(110mハードル)と津田晴一郎(マラソン)が出場、津田は6位入賞を果たした。とりわけ長距離に人材が集まり、昭和5(1930)年には箱根駅伝で初の往路優勝(総合4位)、翌年総合2位を記録し、そして昭和7年、現在まで唯一となる悲願の初優勝を果たした。この時期の中心選手が北本正路、竹中正一郎らで、なかでも北本は区間新記録を含め4度区間賞を獲得するなど競走部を牽引した。

両選手はロサンゼルス五輪(1932年)の5000m、10000mへも出場し、ここでは竹中のエピソードが知られている。5000m決勝で竹中は先頭から遅れ、やがて周回遅れとなってしまう。その際先頭を争う選手に対してトラックの内側を譲ったこと、勝負が決してからも棄権せず最後まで走りぬいたことがスポーツマンシップ精神として称えられた。しかし竹中本人はこうした美談化は本望でなく、トラックの内側を譲ったのは疲労のため偶然外へよろけただけだと後年語っていたという。この大会には津田(マラソン5位入賞)、阿武巌夫(100m、4×100mリレー5位入賞)、小野操(走り高跳び)も出場した。

昭和6(1931)年には中学時代から有名だった2人のスター選手も入学している。短距離の鈴木聞多(ぶんた)と棒高跳びの大江季雄(すえお)である。彼らは徐々に頭角を現し、1935年には揃ってブダペストの国際学生陸上競技選手権の代表となり、第一人者へと成長した。そして今井慶二(400m)、今井哲夫(3000m障害)とともにベルリン五輪代表に選ばれた。

しかし五輪本番で鈴木は100mでは2次予選で敗退、第2走者を務めた4×100mリレーでは「暁の超特急」吉岡隆徳とのバトンパスに失敗し、痛恨の失格を喫してしまった。一方大江はメダルをめぐって5時間を超える死闘を繰り広げた。棒高跳びの優勝争いは大江・西田修平の日本勢とアメリカ勢の5人に絞られ、アメリカのメドウスが唯一、4.35mを成功して1位が確定。その後2、3位争いは拮抗し、ついに大江と西田に絞られたとき、すでにあたりは暗く、小雨と寒さにより体力の消耗も著しかった。そこで審判の提案をうけて日本側で順位を決めることになり、4.25mを1回目に成功した西田を2位、大江を3位と順位が確定したのである。そして両選手は帰国後銀メダルと銅メダルを半分ずつつなぎ合わせてそれぞれ保有した。これがいわゆる「友情のメダル」のエピソードで教科書にも掲載される美談として戦後まで語り継がれてきた。映画俳優にも誘われたといわれる端正な顔立ちの大江は、当時の運動界を代表するスター選手で、その後も東京五輪(1940年)を目指して競技を続けていたが、戦争によりその望みは断たれてしまった。

戦後は競走部のオリンピアンはめっきり減り、昭和期は昭和39(1964)年の東京五輪で4×100mリレーに出場した室洋二郎のみ。平成に入ってからは2000年シドニー大会に小池昭彦、12年ロンドン大会に横田真人と山縣亮太、そして16年リオデジャネイロ大会にも山縣が出場し、4×100mリレーでの銀メダルは記憶に新しい。またロンドン大会、リオデジャネイロ大会のパラリンピックに出場した高桑早生(さき)は慶應義塾では全競技を通じて唯一のパラリンピアンである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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