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【新 慶應義塾豆百科】
綱町グラウンド

2024/12/27

三田キャンパス西門を出て中等部を右に曲がっていくと、右側に綱町グラウンドがある。現在はグラウンドと空手道場、テニスコート、綱町武道館などがあり、主に中等部や体育会が使用している。また南西の隅には心理学専攻の動物実験棟と飼育棟が建っている。

綱町は平安時代中期の武将・渡辺綱の出生地と伝承され、オーストラリア大使館の敷地には綱が産湯をつかったとされる井戸がある。町域は広く、西門前の綱坂の向こう側から古川に迫り、南は現女子高等学校の区域までで明治5(1872)年に三田綱町と町名をつけられた。

福澤諭吉は新銭座時代から運動を奨励しており、明治25(1892)年、いち早く義塾に体育会が組織され、三田山上の稲荷山付近で陸上運動会も毎年開かれていた。しかし、校舎の建築などで手狭になってきたため、明治36(1903)年、綱町の蜂須賀家所有地を購入して綱町運動場が設けられた。柔道部、剣道部、弓術部の道場が次々竣工し、恒例の陸上運動会もこちらで開催されるようになった。同年、第1回早慶野球戦がここで行われたことは知られており、記念碑も建てられている。その後2回にわたり土地が買い足されて、総合運動場として着々と整備されていった。

昭和5(1930)年、25m×13mの総タイル貼り、水深4m・2m・1mの3部分に分かれた、横から水中を見られる水中窓付きプールが竣工、6月に開場式と塾内水泳大会が開催された。このプールはそれまで塾外の施設を使用せざるをえなかった水泳部の練習場としてだけでなく、プール維持費50銭を納めると水泳部の練習時間(12時半から16時半)をのぞき、一般塾生も利用できた。

日吉キャンパス開設後、グラウンドやプール、様々な運動施設が整備されると、綱町グラウンドとの住み分けも進んでいった。さらに昭和37(1962)年には、明治19(1886)年以来続いていた慶應義塾運動会が中止となった。三田山上、綱町、荏原運動場から日吉グラウンドと場所を移して続けてきたものであった。ちなみに、使用されなくなって久しかったプールは平成26(2014)年に解体された。

綱町というと、綱町校舎、綱町研究室も思い浮かぶ。大正5(1916)年に綱町2番地に移転が決まり着工された普通部綱町校舎は、昭和20(1945)年に戦災で焼失、その後その地には中等部が開校している。また、昭和15(1940)年、開設の綱町研究室(文学部心理学研究室、法学部法律鑑定部等)はその前年に徳川達孝邸を購入して設置され、昭和18(1943)年には亜細亜研究所(所長は小泉信三塾長)がそこに新設された。しかし戦災で大半を焼失し、廃止、その後その場所に女子高等学校が開設された。

(元広報室長 石黒敦子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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