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【新 慶應義塾豆百科】
図書館の大時計

2024/09/26

慶應義塾図書館(旧館)正面の上部に位置する大時計は1912年の竣工当時から変わらぬ姿を見せている。

この時計はフランスのセーブルで陶磁の技術を学び、日本近代陶芸の中に陶彫という新しい分野を作り出した沼田一雅東京美術学校(現東京芸術大学)教授が製作したものである。花崗岩の7尺の外輪の中に白藍褐色のファイアンス(土に釉薬を掛けたタイル)を貼り、文字盤には数字に替えて、TEMPUS FUGIT(直訳は「時が飛ぶ」)とラテン語が書かれ、12時の位置には砂時計が配置されている。当時この言葉は時計や墓の銘に使われることが多かったようだ。針は金色の飾り剣となっている。内部の機械は天賞堂の2代目江澤金五郎(塾員)が英国から取り寄せて寄贈したものである。ちなみに建物の外部に色彩を施すのは、当時非常に大胆とされていて、藍色、褐色(田中一貞初代館長は黄色と述べている)を使用したのは日本初の試みで見事成功している。

図書館建築にあたっては、沼田だけでなく多くの美術家との協働がみられる。篆刻家山本拝石の絶筆となった玄関上部の「創立五十年紀念慶應義塾図書館」の文字は岩村透が指示して天賞堂に鋳造させたものである。設計当時から計画され、1915年に完成を見た和田英作画、小川三知施工のステンドグラスもその1つである。建築の指揮をとった田中館長は重視した項目の1つに美観をあげている。パリ留学中に多くの美術家や芸術家と交際したことがこうした協働の成立に繋がるとされているが、岩村透が図書館の意匠に深く関わったことも忘れてはならない。岩村は幼稚舎出身で東京美術学校等で日本で最初の体系的な西洋美術史を講じ、私財を投じて雑誌「美術週報」を創刊した美術評論家で、1910年から森鷗外の推挙により義塾文学科で講師を務めた。田中とも交流があり、いわば図書館の意匠の監修ともいえる働きをした。図書館開館記念の純銀メダルを製作した畑正吉も彼の紹介である。岩村は1917年に47歳で惜しくも死去した。

大時計は1945年5月の東京大空襲で図書館が被災した際、機械部分を焼失したが文字盤は損傷せず、1953年2月に雄工舎電気時計を取り付けて復活した。1958年には服部時計店により、従来屋根裏にあった図書館の親時計機能を1階事務室へ移設している。その後1982年に新図書館が竣工し、図書館機能の大半が引っ越しすることになった。それに伴い、図書館旧館の改装が行われ、それまで屋根裏に上がると見ることができた時計の裏も新たに天井が張られて見られなくなった。

旧大閲覧室(現在の慶應義塾史展示館)には大時計を模した時計がある。1960年代までその下には出納台が置かれていた。

(元広報室長 石黒敦子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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