【新 慶應義塾豆百科】
矢上台 幻の工業大学計画
2024/06/28
矢上キャンパスは、昭和46年に建物が整備され、翌年、小金井キャンパスから工学部が移転し、現在に至る。義塾では三田、四谷(現信濃町)、日吉に次ぐ4番目のキャンパスとなる。
そもそも理工学部の発足は、昭和14年に藤原銀次郎が私財を投じ、日吉キャンパスの敷地内に藤原工業大学予科を作ったことに始まる。その3年後、昭和17年に藤原工業大学の学部ができ、機械工学、電気工学、応用化学の3学科でスタートした。昭和18年までに日吉内に14棟の木造建物が建てられ、その後、昭和19年に義塾に組み込まれ、慶應義塾大学工学部となった。
藤原銀次郎は藤原工業大学が発足してすぐ、昭和15年に矢上台の土地11.5万㎡(現在8.2万㎡)を購入した。当初の藤原の計画では、日吉内は予科校舎のみを残し、工業大学自体は、矢上側に建設する意図であった。しかし、日中戦争の影響等により、日本国内で建築資材の入手が困難な状況となったこともあり、計画変更を余儀なくされた。当初の矢上の計画では、一大工業大学を建造する計画で、機械、電気、応用化学に引き続き航空、金属、土木を増設するという計画もあったそうだ。当時、施設の設計図も出来上がっていたと言われており、完成予想図としてのパース図が入学案内のパンフレットにも掲載されている。
幻のペーパープランと言われ、残念ながら、その設計図は残っていないが、配置図が残されている。日吉内の藤原工業大学は、すべて木造校舎であるが、パース図に書かれている矢上の校舎は、丘の上に鉄筋コンクリート造で4〜6階建ての建物群が林立する、大プロジェクトの様相がうかがえる。しかし、当初の計画が変更となったことから、矢上の用地は手付かずのままとされた。
昭和20年の戦災により日吉内の工学部校舎は7割が焼失したうえに、GHQに日吉キャンパスが接収され、壊滅的な打撃を受ける。戦後の工学部は、登戸、目黒、溝の口など、仮校舎を確保し、散り散りになりながらも、なんとか体裁を保っていた。昭和24年に苦労の末、小金井にあった横河電機の工場跡地の土地建物を取得(一部借地)した。その年は、工学部発足10年目の記念の年で、記念式典で当時の学部長、丹羽重光(しげてる)は「慶應工学部が10年後も、このままの状態で小金井に留まるならば、工学部はつぶした方がよい」と語っている。工学部を孤立した状態で滞ることを危惧した発言とされているが、矢上台に工学部の用地があり、そこが工学部の居場所だと意識していたのではないだろうか。
理工学部の歴史は、数奇な運命を辿り、戦争によって翻弄され、矢上キャンパスは、藤原銀次郎が土地を購入してから30年を経て、ようやく実現したのである。
(管財部 渡辺 浩史)
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