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【新 慶應義塾豆百科】
旧塾監局(煉瓦講堂)

2023/10/31

三田にある塾監局の場所は、以前はレンガ造の旧塾監局があり、1923(大正12)年の関東大震災によって、半壊したことから、翌年解体され、1926年に今の塾監局に建て替えられた。

旧塾監局は、1887(明治20)年8月に竣工し、レンガ造、2階建て、約900㎡で、40~50㎡室が14室、100㎡室が1室あり、学生400~500人収容できる、宏壮(こうそう)な建物であった。当時は、旧島原藩邸、旧塾監局、演説館が横並びに建っており、演説館は、関東大震災により塾監局が建て替えられることになったことから、1924年に現在の場所に移築された。

旧塾監局の設計者は、藤本寿吉で、福澤諭吉のいとこ藤本元岱(げんたい)の次男で、義塾で学んだ後、工部大学校造家学科を2期生として卒業した。工部大学校は、東京大学工学部の前身で、ジョサイア・コンドルに学んでいる。なお、新塾監局の設計を行った、曾禰中條建築事務所の曾禰達蔵は、工部大学校1期生で、藤本の1期先輩にあたる。旧塾監局は慶應義塾の初めてのレンガ造の建物で、この頃は、幻の門(東門)側が正門(黒門)であり、坂道を上がって、最初に目につく建物であった。当時の若者からしたら、西洋風建築のある学び舎は憧れと理想を仰ぎ見る存在だったであろう。

旧塾監局は解体されるまで、36年間利用され、建物としては短い役割を終えた。「塾監局」は慶應独特の用語で、明治期の塾務は教頭、塾監、会計主任の3つの役職者を中心に運営処理され、役職としての塾監は当時主に庶務や寄宿舎のとりまとめなどを行っていた。やがて塾監という職名はなくなり、明治40年代に塾監局という呼称が広く事務機構全般を統括する意味に使われるようになった。それをそのまま建物名として使用している。旧塾監局の竣工当初の建物名は「講堂」と呼称し、その他、第一講堂、煉瓦講堂といった名称で呼ばれていたようで、元々は教室機能の建物で事務部門は入っていなかった。竣工当時は、まだ旧島原藩の中屋敷内に一部増築を施し、教室として使用しており、その中に事務部門(塾監局)があった。

旧塾監局ができた頃の慶應義塾は、まだ創立して30年ほどの時期であり、1884(明治17)年あたりから学科目の改正もあって、徐々に学事上の整備が行われ、大学部設置への発展の機運が高まっていた頃だ。1890年には念願の大学部が設置された。1891年には商業学校も設立している。慶應義塾への入学者数は、こうした義塾の充実発展に伴い、増加の一途をたどる。学生数が増えるのに伴い、校舎などの増築整備も漸次行われるのだが、旧塾監局はその発展の契機となった最初の建物である。

(管財部 渡辺浩史)

1891年(明治24年)三田敷地図(慶應義塾校舎一覧:江木商店、三田メディアセンター アーカイブ室蔵、一部加工)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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