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【新 慶應義塾豆百科】
連合三田会大会

2022/06/30

大勢の社中で賑わう連合三田会大会(2018年)

昭和5(1930)年11月8日、329名出席のもと東京會舘で第1回連合三田会が開催された。福澤諭吉存命中の明治13(1880)年以降、交詢社や福澤別邸などで義塾の同窓会が開かれてきた。そして大正時代には同窓会からいつしか三田会という名称に置き換わっていき、活動が活発になっていた。卒業生の急増も受けて、地区、卒業年等で設けられた三田会を横断的にしようという機運が起こり、連合三田会は生まれた。会の翌日は地方三田会の出席者を三田、四谷参観、新たに取得した日吉視察と塾の案内もなされた。その後14回を数えたが、戦争により中断を余儀なくされた。

戦後の昭和26(1951)年、全国連合三田会として新しい組織で再出発し、年1回秋に大会を開催するとして第17回大会が開催され、雨天にもかかわらず三田山上に家族も合わせて千二百名余が集結した。翌年5月の関西の三田会が中心となった大阪開催は、前日の大講演会と宝塚大劇場を満席にするラリーで始まり、未曾有の盛会となった。その秋の大会を中止する案も出たものの、三田で学生の応援を得て家庭的な会にすることをめざして実施された。こうして秋の三田山上での開催が恒例となったが、慶應義塾創立100年の年には記念式典の翌日、記念行事の一環の塾員の日として祝賀式と園遊会を日吉で開催、1万人を超す参加者で賑わった。

全国連合三田会という名称から「連合三田会(1967年から慶應連合三田会)」と改められたのは昭和38(1963)年で、「全国」という言い方が地域別三田会に重きを置きすぎているように見えるとの理由からだった。同時に「昭和〇年連合三田会大会」と明記すること、塾長は名誉会長とし、委員長を会長とすることも決められた。60年代になり、塾員数は10万人に近づき、大会の基盤固めと義塾社中が常時活動できる恒久的な同窓会組織を作るべきと、義塾と塾員で検討された結果だった。この年は日吉グラウンドで行われる慶應義塾体育会競技会を観覧しながら親睦を深めようと日吉開催となり、大会券を当日売りのほか各三田会を通じて前売りすることもなされた。翌年からは当番年度制も導入され、現在につながる実施形態が整備されたともいえよう。この年から日吉での開催が恒例となった。

それから半世紀を経て、連合三田会大会は2万人に及ぶ参加者が日吉に集まる義塾最大のイベントとなり、10年ごとの当番年度が幹事として様々な企画を運営し、記念品や福引も人気を博している。大学紛争のために休会となった昭和44(1969)年以外は悪天候でも実施してきたが、ここ数年、コロナ禍のため、中止やオンライン開催が続いている。

新日吉記念館で開催されるのが待ち遠しい。

(元広報室長 石黒敦子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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