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【新 慶應義塾豆百科】
大阪と慶應義塾

2022/05/31

大阪駅と慶應大阪シティキャンパスのあるグランフロント大阪

大阪は、創設者・福澤諭吉と慶應義塾にとって大変ゆかりが深い場所である。この地で生まれた福澤が門閥のない実力主義の「適塾」で学問の素地を培い、そして慶應義塾最初の分校「大阪慶應義塾」が置かれた。

淀川河口に開けた大阪は、古くから水運による物流ネットワークが機能し、江戸時代には諸藩の年貢米や特産物が集まる経済の中心地で「天下の台所」と呼ばれた。淀川の中州(中之島・堂島)には西国各藩の蔵屋敷が立ち並び、福澤はその堂島にあった豊前中津藩奥平家蔵屋敷内で、天保5年12月12日(1835年1月10日)に生まれた。父の急逝により生後18カ月で中津(大分県)に戻ったが、20歳の時に蘭学を志し、大阪の医家・緒方洪庵の蘭学塾「適塾」で寝食を惜しんで学問に打ち込む3年半の歳月を過ごした。

その後藩命を受けた福澤は、安政5(1858)年に江戸に出て築地鉄砲洲の奥平家中屋敷内に慶應義塾の起源となる蘭学塾を開く。慶應4年に芝新銭座へ移転して時の年号をとり「慶應義塾」と命名された学塾の評判は、明治初期には当代随一を誇り、洋学を志す者が全国から殺到する勢いだった。そこで慶應義塾は地方の学生のための分校を設置することになり、明治6年に分校第1号の「大阪慶應義塾」が開校した。大阪の人材育成教育に貢献した学舎は、程なくして「その地域以外の学生にとっては東京で学ぶのも関西で学ぶのも費用や手間の点で変わりが無かった」などの理由から急速に設立意義が失われ、2年足らずで終わりを迎えた。現在大阪市内には、分校の存在を後世に伝える「独立自尊」と彫られた跡記念碑と、生誕地には「福澤諭吉誕生地」と彫られた記念碑が建ち、歴史を辿ることができる。

築地鉄砲洲の蘭学塾開校から150年の時を経た2008年5月、誕生地碑近くの堂島川を臨む場所に、創立150年記念事業の一環で「慶應大阪リバーサイドキャンパス」が誕生した。歴史的にゆかりの深い大阪に再び関西の拠点を設け、慶應義塾の更なる発展を目指すために設立されたサテライトキャンパスは、2013年5月にJR大阪駅直結施設グランフロント大阪内へ移転すると同時に「慶應大阪シティキャンパス」と名称を変更した。そして、慶應義塾の理念である「人間(じんかん)交際」を深める、人と学びが行き交う場所として、教育研究や情報発信、研究成果を還元する講座の開催など様々な活動を行っている。

キャンパスフロアには「大阪慶應義塾の塾生」の写真パネルを掲げ、古いしきたりや慣習にとらわれず、「文明は人の智徳の進歩なり」と説いた福澤の精神を今に伝えている。

(塾長室 慶應大阪シティキャンパス事務室担当 小﨑由紀子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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