三田評論ONLINE

【新 慶應義塾豆百科】
信濃町キャンパス内の北里柴三郎の足跡

2021/10/29

総合医科学研究棟1階ラウンジの福澤と北里の肖像画

信濃町キャンパスは、大正6(1917)年慶應義塾大学部医学科創設により誕生し、三田キャンパスに次いでできたキャンパスである(開校・病院開院は大正9(1920)年)。

初代学部長(大正9年より学部となる)は北里柴三郎で、初代病院長も兼任し、大正6年から昭和3(1928)年までの10年間、医学部長を務め、昭和6(1931)年78歳で逝去した。

北里柴三郎が医学科創設に当たって学科長を引き受けたとき、すでに世界的にも名が通っていた人物であった。自身で北里研究所も持っており、当時日本医師会初代会長として、多忙の中で、学科長の任を引き受けている。既に福澤諭吉は亡くなっており、北里柴三郎は福澤諭吉の門下ではないが、由縁により福澤を恩人とし、その恩に報いるべく、医学科を設置するに当たり尽力する覚悟を述べている。北里は、教授陣を当時国内で一線級の人物で揃え、慶應義塾大学医学部の発展にもたらした功績は多大なものである。

信濃町キャンパスにおいて、北里柴三郎の足跡を辿るとすると、代表的なものは、北里記念医学図書館である。北里が没して3年後の昭和9年、「医学図書館建設会」が発足し募金を開始、昭和12年に竣工した。建設会(会長山本達雄)が主導して建物の建設までを行い、昭和19年義塾に寄付する形をとっている。建物名は、建設会との覚書に「北里博士記念医学図書館の名は永久に保存すること」とされている。

北里記念医学図書館は現在も図書館として利用され、地下1階、地上2階で、正面向かって左側は4層の書庫となっており、43万冊の図書が所蔵されている。2階にはあまり大きくはないが講堂(北里講堂)が設けられ、多くの式典に活用されている。正面玄関に北里柴三郎の胸像(吉田三郎作)があり、これも建設会の寄付によるものだ。2階第1会議室には、これまでの歴代医学部長の肖像画・写真が23枚飾られており、その正面に、福澤諭吉と並んで北里柴三郎(和田英作作)の肖像画が飾られている。

信濃町キャンパスは昭和20(1945)年の戦災により、施設の60%が焼失しており、現在、戦前から残る建物はこの図書館と予防医学校舎の2つのみで、戦前を伝える建物が非常に少ない。北里記念医学図書館は戦前からの歴史を伝える、貴重な建物である。

また、総合医科学研究棟1階ラウンジに福澤諭吉と北里柴三郎の肖像画を陶板に印刷を施したものがある。それは2001年竣工記念品として寄贈を受けたものだ。2人向き合って座って、談笑しているようでもあり、ラウンジにいる人に語り掛けているようでもあり、我々を見守っているようでもある。

(管財部 渡辺 浩史)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事