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【新 慶應義塾豆百科】
箱根駅伝と慶應義塾

2021/02/27

北本正路氏の箱根駅伝区間記録メダル(1931年)(北本正旻氏寄贈、慶應義塾福澤研究センター蔵)

2021年1月、第97回箱根駅伝において、塾競走部の杉浦慧君が関東学生連合チームの主将として往路5区を力走した。塾生の箱根出場は、関東学連選抜/学生連合で81・82回の亀田健一君、94回根岸祐太君に次いで3年ぶりであった。残念ながらチームとしての出場からは4半世紀以上遠ざかっており、直近3回は、いずれも出場枠が拡大された70回(1994年)、60回(1984年)、50回(1974年)となっている。

箱根駅伝は、NHK大河ドラマ「いだてん」で一躍名前が知られるようになった金栗四三の発案で計画され、第1回は1920年2月に開催された。参加校は早稲田、明治、東京高師(現筑波大学)、そして慶應の4校。沿道に観戦者はほとんど無く、午後1時にスタートし、4区で日没。闇の中、自転車で伴走するマネジャーが提灯を買ってきたり、地元青年団がたいまつを掲げたりという中で、山岳部主将でもあった二木謙三が5区を走って往路4位でゴールしたのは夜10時前。翌日も夜が明けぬうちにスタートする厳しいレースで、総合でも4位という初陣だった。

以後、戦前には22回開催されたうち、慶應は18回出場しており、戦後も12回出場(そのうち1956年の予選会開始以降は6回)、通算で30回を誇る。実は、予選敗退ではなく不参加を選択した年も少なくなく、それは冬期のロードでの無理な競技がトラック競技のシーズンに悪影響を与えるという判断であった。

塾競走部の箱根の黄金時代は、アムステルダム(1928年)、ロサンゼルス(1932年)、ベルリン(1936年)の3つのオリンピックに中長距離選手として津田晴一郎、北本正路、竹中正一郎、今井哲夫を輩出した頃であろう。慶應唯一の総合優勝を果たしたのも1932(昭和7)年の第13回大会のことで、特にこの時、主将北本の10区の走りは、箱根駅伝史に残るものだ。

水色だった慶應の襷(当時は「緑」と表現されている)を、トップから6分29秒差の3位で引き継いだアンカーの北本は、六郷橋付近でまず早稲田をとらえて2位に浮上、先頭を走る日大を猛追して、ついに芝増上寺前で抜き去り、優勝を果たしたのである。2021年、10区で創価大との3分以上の差を逆転した駒澤大の走りは、89年前のこの逆転劇以来と報道された。

塾競走部は、箱根への出場、そして勝利を期待されるだけではなく、いかに慶應義塾らしく戦うかも求められる。他校に倍するその困難を越えて、大手町のゴールテープを切る日を、社中は静かに熱望している。

(慶應義塾福澤研究センター准教授 都倉武之)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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