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【新 慶應義塾豆百科】
三田の新研究室

2021/01/30

1966(昭和41)年1月、永沢邦男塾長の諮問により三田研究室建設計画委員会が設けられ、長年懸案だった新研究室実現がにわかに現実のものとなった。第1から第5研究室と研究室が各所に分散している現状は学問研究に、そして教育にも重大な欠陥があるとしてのことだった。10月末には「建築位置は第3校舎ならびに第1研究室の場所、地上7階地下2階、2階より上へ文・商・経・法の各学部の研究室を配置し、各学部の床に直結した書庫を持つ」と基本設計案をまとめて委員会は解散した。初めに西校舎北側に建つ第3校舎を解体して第1次工事を行い、隣接する第1研究室内の施設を仮移転したのち、取壊して残り半分の建設を第2次として実施、4学部が集中する新研究室を建設するという計画だった。

翌57年3月、南校舎ピロティに16の教室と共同研究室が新設されたのち、第3校舎が取り壊され、5月22日、新研究室の地鎮祭が行われた。翌年7月末に西側半分が竣工、夏季期間に移転が実施された。第1研究室の個室と共同研究室の大部分はそこへ移ったが、第2、第5研究室や第1校舎への仮移転も行われた。

この間、67年1月から、別途研究・教育情報センター構想も進められていた。それまで独立して行われていた研究室と大学図書館の図書・資料の収集から提供までを1つの組織で運営することでサービスの質的向上をめざすものだった。新研究室の建設に合わせて、三田の研究室図書資料と図書館図書資料の一元化を図るため、新研究室の図書館寄りの東側に書庫を設け、図書館との間に空中の連絡通路を作ることも計画された。

そうこうして69年11月、白壁がまぶしい新研究室は竣工した。ちょうど大学立法紛争が終結した翌月で、長く続いた学生紛争に一旦終止符が打たれた時でもあった。正面の数段の階段を上り、ドアを入ると左手に受付、その奥には4学部の学部長室が並び、全教員のメールボックスや電話交換室も設けられた。突き当りの壁には在室確認の表示板があって、学部ごとに教員名が並び、点灯していると在室とわかった。右手の教員談話室では学部を超えた教員の交流や外部の人との面会が行われていた。右手のエレベーターから図書館寄りの東側は研究・教育情報センターとなり、地下には本部が置かれた。1階から上の階には、三田情報センターの収書・整理といったテクニカルサービス部門と旧来の研究室図書の書庫や法学資料室、経商資料室が配置された。連絡通路は3階に設けられた。

新研究室は「新研」と呼ばれ親しまれたが、2000年、建物に「新」をつけない方針が出され、単に研究室と呼ばれるようになった。その頃になるとまた研究室不足が生じ、新新研の要望も語られるようになった。

(慶應義塾元広報室長 石黒敦子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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