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【新 慶應義塾豆百科】
三田の第一から第五研究室

2020/12/28

第二研究室

三田キャンパスの研究室は、1969年末に竣工し、長く新研究室と称された。そこには三田の文・経・法・商の四学部の教員の研究個室がフロアを分けて配置され、1階の教員談話室では、学部を越えた教員の交流がなされている。

それ以前、三田には第一から第五の5つの研究室が設けられている。三田の研究室計画の端緒は大変古く1937年だった。その年の9月、新校舎の第一校舎が竣工し、続く第二期工事として研究室建設が予定されたが、日中戦争勃発等で見送られてしまった。研究室は塾監局の一部や第一校舎などに設けられ続けた。鉄筋校舎を改修して第一研究室が開設されたのは1951年、研究室棟実現まで実に15年近くを要したことになる。

この改修に至るまでも新たな研究室建築の努力があった。戦後になって研究室建築が急務となり、義塾では三学部の研究室とゼミナール小室用に1000坪の仮建築工事費約500万円を算定し、初年度支出として120万円を予定した。塾員間でも募金活動が行われたが、建設実施にはなかなか至らなかった。そうこうしているうちに第二(五号館)、第三校舎(四号館)が竣工、教室不足が解消され、鉄筋校舎を研究室へ改修する案が再浮上したといえよう。

第一研究室に改修された鉄筋校舎は1920年に予科校舎として竣工した我が国最初の鉄筋の校舎であった。コの字型で両翼の内側に玄関のある構造だった。その後、高等部、工業学校の校舎として使用され、また戦災で校舎が焼失した普通部や中等部(商工学校)も一時使用していた。1948年開講の通信教育部事務室や高等学校も一部を使用するなど、戦災で多くの施設が焼失したなか、多様な使われ方をしてきたといえる。

こうして第一研究室が1951年4月に誕生したのに引き続き、同年8月には第二研究室(ノグチルームを1階に配置し、新萬來舍とも呼ばれた)が、翌年には第三研究室が竣工した。谷口吉郎デザインの第二、第三には教授の研究室が置かれ、第一には助教授、助手、院生らの研究室のほか、研究書庫が設けられた。1954年の福澤先生誕生記念会当日、第一研究室のコの字の内側に福澤諭吉胸像が除幕された。以来、67年の撤去まで卒業記念写真等の撮影場所として人気となった。

第一から第三研究室建設後も研究室不足は続き、1959年5月には、創立100年事業で建設された南校舎5階に第四研究室が設けられた。さらに65年1月には、第一校舎屋上に軽量鉄骨の平屋三四室の第五研究室が設けられ、第一研究室から54名が引っ越した。こうした三田山上に分散する研究室体制を抜本的に解決する設計計画委員会はその翌年に発足することとなる。

(慶應義塾元広報室長 石黒敦子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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