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【新 慶應義塾豆百科】
早慶戦100周年記念碑

2017/03/03

綱町グラウンドに入ったことのない塾員の方も多いかもしれない。三田キャンパスにほど近く、綱町三井倶楽部の裏手に位置するが、明治36(1903)年、三田山上にあった運動場が狭くなったため、塾長鎌田栄吉が侯爵蜂須賀茂韶(しげあき)所有地を購入、そこを義塾の運動場としたことに起源がある。

現在、柔道場、剣道場、弓道場を持つ綱町武道館や相撲道場、空手道場などがあり、体育会各部の拠点となっているほか、中等部の体育の授業やクラブ活動が行われている。

この綱町グラウンドに早慶戦100周年記念碑が建てられている。第1回の早慶野球戦は明治36年11月21日、この綱町グラウンドで行われた。同月5日の早稲田大学野球部から義塾に届いた「挑戦状」に「貴校と当校とは是非共マッチを致す可き者」と塾野球部は応答したのであった。結果は、主将だった宮原清(後に日本社会人野球協会〔現日本野球連盟〕初代会長)やエース桜井彌一郎らの活躍で11対9で義塾の勝利。その後長く続くことになるライバル校同士の戦いを制したのだった。

約3,000人の観衆を集め、なかなかの好勝負であったことから、早慶戦は翌年より春、秋に1試合ずつ行うことが取り決められる。ところが前年秋から3回勝負となった明治39年、1勝1敗となり3回戦が行われる予定であった11月11日、両校応援団の熱狂が極に達し、いかなる事態を引き起こすかもしれないありさまとなって、義塾と早大側は協議し、試合を中止することとなった。

当時三田山上は大変な騒ぎだったようだ。当時学生で寄宿舎の寮長であった高橋誠一郎の回想によれば、鎌田塾長が早慶戦中止後、寄宿舎生が不穏の挙に出た責任をとって寮長は退舎しろ、という問題にまで発展したそうである(「三田評論」『新編随筆慶應義塾』所収)。その後、早慶野球戦は大正14年の復活まで約20年間開かれることはなかった。

さて、この早慶戦100周年記念碑だが、平成15(2003)年11月21日、第1回早慶戦からちょうど100年目となる日に除幕式が行われた。式では早稲田からの挑戦状と慶應からの返書の交換が再現され、その後26日には明治神宮球場で記念試合が行われている。

かように歴史を刻んだ早慶戦の起源が綱町グラウンドであったわけだが、第1回の早慶ラグビー戦も大正11年11月23日、綱町グラウンドで開催されている。明治39年の野球戦以来の早慶両校のスポーツ交流禁止は、このラグビー早慶戦によって再開された。

綱町グラウンドが日本のスポーツ史に残る場所であることは間違いない。 (編集部)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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