【執筆ノート】
『漂泊者の身体──ポール・リクールで読み解く西行・芭蕉・放哉』
2024/08/23
現代社会に生きる私たち、特に都市生活者の多くは何らかの生きづらさ、「ここが私の生きるべき場所なのか」という異和感を抱えているのではないか。若い人ならば思い切って海外移住したり、定年後を自然豊かな場所で過ごす人も多いと聞く。だが家族を抱えた現役世代はそうはいかない。疑問符を抱えつつ苛烈な日々に立ち向かうしかなかろう。けれどそのような葛藤は、現代人特有ではない。日本古典文学に見る『方丈記』や『徒然草』の隠棲は、都市を離脱した成果である。さらに隠棲では飽き足らず、何処へともなくさまよい出る者たちがいた。本書にて「漂泊者」と定義した西行や芭蕉、蕉門の異分子惟然(いぜん)や路通(ろつう)、近代以降では自由律俳句の放哉(ほうさい)や山頭火らである。それぞれに時代背景は異なるが、彼らは家や家族を捨ててまでも、その漂泊に何らかの自由を夢見た。
本書はフランスの哲学者ポール・リクールの初期の著書『意志的なものと非意志的なもの』が提示する「ためらい」や「非決定」といった概念によって、彼らが夢見た自由とは何かを解釈してみた。例えば惟然は「世の中をはひりかねてや蛇の穴」と吟じた。「世の中」とは急速に経済発展していく近世日本。そこに惟然は馴染めず、かといって隠棲の「穴」に籠ることも潔しとしない。ただただ蛇のごとく這いまわるという惟然の生身の漂泊には、双六遊びのようなゴールがあるわけではなく、漂泊しようという意志は「ためらい」から「決意」へ、「決意」から「ためらい」へと幾度も揺り戻される。それをリクールは「非決定」とした。けれどこの「非決定」においてこそ、人間は自由なのだとリクールは言う。
以上は本書第1章のさわり。第2章では中国大陸の老荘思想や禅宗が日本の漂泊者に及ぼした影響、第3章では欧米文学も参照し、漂泊者がそこから逃れようとする都市、特に貨幣経済の発展や爛熟を検証した。
さて本書は、書店の日本古典文学や現象学の棚に置かれているが、西行や芭蕉の研究者や愛好者はリクールなど読まず、リクール研究者も日本古典文学には関心が薄いかもしれない。なのでどちらの専門家でもない私が書いてみた。タイトルが思わせるほど難解な本ではありません。
『漂泊者の身体──ポール・リクールで読み解く西行・芭蕉・放哉』
近藤 祐
彩流社
336頁、3,300円(税込)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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近藤 祐(こんどう ゆう)
文筆家・塾員