【執筆ノート】
『痛みの〈東北〉論──記憶が歴史に変わるとき』
2024/06/27
本書は、2011年3月11日を起点として、この13年間で『現代思想』(青土社)などの雑誌に寄稿した短い文章を、編集者がかき集めて1冊に編んでくれた、エクリチュール(記憶の束)である。震災直後から、1年目、2年目、3年目、5年目、10年目……とその時々に向き合っていた被災地(わたしの出身は宮城県南三陸町である)の様子やその時の気持ちがよみがえってくる。そして、あらためてこの13年間の記憶をたどってみると、「わたしは、悲観主義者なのだろうか」と考え込むほどに、東日本大震災が起きた直後よりも、現在の方がずっと憂鬱に、絶望的な気持ちになっていることにも気づかされる。
実は、震災直後は地震と津波さらに原発事故という大変な壊滅状況のなかにありつつも、意外に楽観的でもあった。もう失うものがなくなったという、ゼロ(あるいはマイナス)からの地域の出発を、それなりに地域住民も覚悟を決めて生き抜こうとしていたからだった。しかし、退縮化する日本社会を背景に、度重なる災害と新型コロナのパンデミック、さらに世界中で巻きおこっている戦争、紛争……、さらにはSNSやメディアでの深刻化する〈他者〉へのバッシングやヘイトクライムが積み重なるこの社会の現実に、福島も三陸沿岸部も例外なく引きずられ続けている。
あの13年前から、ケアが未然のままに取り残され、痛みが続いているという感じだ。このことは災害被災地のみならず、かなり広範囲に、この社会を包み込んでいるカタストロフィー以後の憂鬱だろう。
痛みの大きさが尋常ではなかったのだから、そう簡単に治癒できるわけもない。一生付き合い続けなければならない痛みもあるだろう。それでも、〈ケア〉の飛び地をあちこちに拡散させながら、あの出来事を忘れるのでもなく、やがて〈型〉や〈構え〉になる方法で、痛みを飛び越えて、もうひとつの世界を見出したいものだと、思う。
2024年は能登地震ではじまった。すでに「世界が終わってしまった時代」に生きる私たちは、〈人間〉であることを、試されているのだと思う。
『痛みの〈東北〉論──記憶が歴史に変わるとき』
山内 明美
青土社
296頁、2,860円〈税込〉
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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山内 明美(やまうち あけみ)
宮城教育大学教育学部准教授・塾員