【執筆ノート】
『西行──歌と旅と人生』
2024/04/12
今日、実に多くの人が西行に関心を寄せていることを知り、驚くことがある。
現代は何を信じてよいか分からないような、混とんとした時代でもあるが、それだけに、何かはっきりとは表現できないが、西行に人間の生き方の本質に触れるものをみて、心引かれるのであろう。
西行は定家とともに新古今時代を代表する歌人である。『新古今和歌集』には、専門歌人ではない西行の歌が、専門歌人をはるかに上回る、94首という集中最多の歌が選入されている。
西行の読者は実に広範である。専門家から一般の読者に至るまで、さまざまな人々によって、西行に関する著作が書かれている。西行はもはや、国文学やその周辺の専門家だけの関心の枠には到底収まらない、歴史上の巨人なのである。
西行が広く国民に愛されるようになったのは、歌人としての評価とともに、生き方そのものに、人々を強く引きつけるものがあったためである。
旅は危険を伴うものであったから、やむを得ない事情がなければ旅などしなかった時代に、日常性を離れて未知の世界に心を遊ばせる旅の魅力を、早くも見出していたと思われる。そして旅の中で、また日常生活の中で触れた桜の美しさを数々の名歌に詠んで人々に伝えた。
貴族社会から武家社会に移行しようとする激動の時代に、人生無常の自覚を促し、それを乗り越える道があることを力強く示した。さらにまた、仏教と神道が共存する上でも、西行が果たした役割は、きわめて大きなものがあった。
目崎徳衛氏が指摘するように、西行はわが国の自由人のいわば典型を確立したのであり、激動期にかくも徹底して自己の生き方を貫徹した精神の強靭さは、西行以前はもとより、現代にいたるまで比類のないものである。
世を捨て、通常の社会生活を断念ないし放棄した人間が、かえって同時代並びに後代に、きわめて大きな影響を与えたことは、歴史上の一種のパラドックスともいうべく、単に和歌史の上のみならず、思想史、文化史の上で、稀有の存在といえよう。
『西行──歌と旅と人生』
寺澤 行忠
新潮選書
232頁、1,760円(税込〉
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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寺澤 行忠(てらざわ ゆきただ)
慶應義塾大学名誉教授