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【執筆ノート】
『「新しい時代」の文学論 夏目漱石、大江健三郎、そして3・11後へ』

2024/03/19

  • 奥 憲介(おく けんすけ)

    文芸批評家・塾員

恥ずかしい話だが、高校卒業までまともに本を読んだことがなかった。読書を始めたのは大学入学後だ。読書スタイルは乱読のごった煮で独学。漱石も荷風も太宰も、バルザックもヘミングウェイも、庄司薫も村上春樹も同時期に知った。文学に親しむ余裕も教養もなく、師も知識も持たない青年が格闘技のように作品や作家と1人対峙する、そんなストイックな青春の読書だった。

この本は大学時代の自分の読書スタイル、経験から生まれたものだと思っている。戦後の作家を1人選んで本を書かないかというお話をいただいた時にまっさきに浮かんだのが大江健三郎だった。大江こそは、私のごった煮読書の中からある時燦然と光を放った作家だったからだ。

それぞれの時代の変わりめに作家たちは何を書いたのか。拙著は戦後を代表する作家・大江健三郎を軸に、明治の漱石と3・11後の新しい文学を繋げて社会の変容と文学を論じたものだ。

かつて時代精神を一身に背負った不世出の青年作家と、ある時期を境に時代の変化についていけず七転八倒し、3・11の後、最後は空虚さの中にあった大作家、2つの姿を論じた。作家のその遍歴こそが、戦後から現代にいたる日本社会のあり様を映し出していると考えたからだ。

ノーベル賞作家の死後、その神格化、研究対象化が進んでいるのではないか。大江と出会う自由、読むことの自由を市井の読者から奪ってほしくないという密かな思いがある。戦後が本当に終わらない限り、大江は未だ、“権威”によって正典化されるにふさわしい作家ではない。

ある編集者から、生前の大江さんはどんな小さなものでも自分に関する文章はすべて目を通していたと聞いた。原稿を仕上げた時はまだご存命だった。この本を大江さんが読んでくれたら、という夢のような思いがあった。昨年3月、大江健三郎死去のニュースに触れた時、その夢は潰えた。

しかし、これからも私は名もなき一読者として、現代人への遺言のごとく大江が遺していった言葉について1人考えていこうと思う。

『「新しい時代」の文学論夏目漱石、大江健三郎、そして3・11後へ』
奥 憲介
NHKブックス
248頁、1,650円(税込)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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