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【執筆ノート】
『前田久吉、産経新聞と東京タワーをつくった大阪人』

2024/02/13

  • 松尾 理也(まつお みちや)

    大阪芸術大学短期大学部教授・塾員

前田久吉の評伝を書いた。前田は産経新聞の創業者であり、東京タワーの創設者でもある。前田自身は小学校卒で、学歴でいえば慶應とは無縁だが、一方で時事新報の終焉を取り仕切った人物として、慶應とは少なからぬつながりを持っている。

慶應から見れば、前田は仇役である。戦前に時事が休刊に追い込まれた際の責任者であり、ずいぶんと三田界隈から反発をかった。戦後、時事新報を復刊するが、おそらくねらいは時事の名声をもって当時の新聞用紙割当を獲得することで、採算を度外視して尽力したわけではなかった。

だが、前田の足取りをたどっていくと、彼の波乱に富んだ人生の要所要所で慶應人脈が重要な役割を果たしていることがわかる。小林一三は前田の師と言える存在だったし、小泉信三、松永安左エ門といった顔ぶれとも親しい間柄だった。なかでも深い関係だったのは、時事新報最後の社長、板倉卓造だろう。

時事新報再建に乗り込んだ際、前田は相当いじめられたようだ。そのひとりが、板倉だった。前田は板倉が亡くなった後の回想でも、「慶應の先生方――、むずかしいんだな。まあ名前出して悪いけど板倉卓造氏とかね」と愚痴をこぼしている。板倉は板倉で、「東京で新聞をやる場合には、前田のようなタイプでは向かない。商人ですからね。いくらか政治性を持っているとか、何かの頭がある人じゃなくっちゃ……」とあからさまに下に見ていた。

面白いのは、その板倉が戦後参議院議員となった前田のために一肌脱ぐことだ。大手町にそびえるサンケイビルの敷地はもとはといえば国からの払い下げだが、それが可能となったのは時の総理であり親友といえる間柄であった吉田茂に板倉が話を通したからだった。前田も時事なき後、板倉を産経の論説委員長・主筆として手厚く遇した。

われわれは、互いにお愛想を言い合うコミュニケーションに慣れすぎているのではないか。だから、前田と板倉のように悪口をぶつけ合う間柄を理解できないのではないか。おべんちゃらも、へつらいもない。本来、それは慶應的なありかただろう。本書にはそうした個性のぶつかり合いが他にも数多く収められている。

『前田久吉、産経新聞と東京タワーをつくった大阪人』
松尾 理也
創元社
336頁、2,750円(税込)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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