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【執筆ノート】
『ハイクポホヤの光と風』

2023/10/13

  • 舘野 泉(たての いずみ)

    ピアニスト・塾員

2015年の9月から21年の10月まで全74回の連載を『音楽の友』誌で続けさせて頂いた。はじめの24回は「80歳の屋根裏部屋」という題でいろいろな作曲家たちとの関わりを、あとの50回は特にテーマは設けず「ハイクポホヤの光と風」と題して折々の感慨を書き連ねたものである。ハイクポホヤとはヘルシンキの北230キロの中部フィンランドにある私の別荘。毎年夏の2カ月を妻のマリアと2人だけで静かに過ごすが周囲は森と湖だけで人と会うこともほとんどない。水道はなく飲み水には湧き水を使っていた。

1冊の本にするにあたって内容を2つに整理してみた。1つは長い人生で関わりを持った作曲家たちのこと、もうひとつは演奏家として歩いた国々とそこで出会った人達ということになろうか。演奏しながら旅を続けるピアニストの姿はある意味修行僧や托鉢僧みたいなもので、その中に浮かんでくる様々な人や自然との関わりは一期一会のものである。

「人は死ぬために生まれてくる」。南太平洋の島で原住民の古老が語った言葉で知の巨人と言われた立花隆は大きな感銘を受けた。アメリカの先住民族ナヴァホ族の創世神話ではニルチッイ・リガイという風の神がこの地上に生きるものすべての誕生の時に生命を与えてくれるという。人はその体内を風が吹いている間だけは生き、風がやめば言葉を失い、死ぬ。間宮芳生の作品「風のしるし」はこの言葉に触発されて生まれた。かと思えば戦中召集された中田喜直は「どうせ死ぬのなら知的な死に方をしたいと思い航空隊を志願した。見送った方々に生きて帰れるよと言われたが、そんな気休めを言っても駄目で、生きて帰れるなんてあり得ないのだ」と乾いていた。その中田は戦後作曲界に復帰し「夏の思い出」や「雪の降る街を」などの名曲を世に遺してくれた。作曲家には林光や吉松隆のような塾在籍者もいて、それぞれが吐露している内心の姿も書いておきたかった。

執筆中の3月26日に妻マリアが世を去った。癌だった。最後の3週間は痛みや苦しみもなく自宅で共に過ごした。病床の隣の部屋で新たに20章を書き下ろしピアノを弾く姿を見ていてくれた。いつものように。

『ハイクポホヤの光と風』
舘野 泉
音楽之友社
272頁、2,530円(税込)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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