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【執筆ノート】
『主権者を疑う──統治の主役は誰なのか?』

2023/09/11

  • 駒村 圭吾(こまむら けいご)

    慶應義塾大学法学部教授

故安倍晋三氏は、憲法改正に国民をいざなうために、「最終的に決めるのは、主権者である国民の皆様です」、「主役は国民の皆様です」という2つのフレーズを連呼していた。今から4、5年前のことである。「主役」と持ち上げるわりには、「最終的に決める」と出番はトリに限られている。出番が来るまでは黙っていてくれということなのだろう。

もちろん、主権者を持ち上げてきたのは保守だけでなくリベラルも同様である。圧倒的多数を誇る政権与党は“真の主権者の声”に耳を貸さない寡頭的専制政党であるとリベラルは批判するが、“真の主権者の声”に耳を貸しているはずのリベラル政党の議席は減る一方であるからフシギである。

「主権者国民」は、主役であり、最後の切り札であって、その声は「神の声」である。が、同時に、そこには呪術的なウソ臭さが漂ってもいる。

私は、「主権者国民」を信じることができないし、信じないと言い切ることもできない。だから、疑うことにした。

そのために、主権/主権者をめぐる、中世以来の神学や法学の軌跡をたどり、大魔神やゴジラの比喩で考え、最終的には、《主権者を疑うことによってしか、主権論は成立しない》という結論に至った。

本書の前半はやや観念的だが、後半では実践的な提案もしている。国民が演ずべき役柄は「主権者」だけではない。「有権者」や「市民」の仮面をかぶって統治のステージに立つこともある。“取り扱い注意”の「主権者」にお出ましいただく前に、「有権者」そして「市民」としてがんばる姿を見せるべきだろう。

「有権者」や「市民」としては寝こけている国民が、「主権者」としてお呼びがかかるといきなり目覚めて能力を発揮するとは思えない。普段は教科書を開いたこともない生徒が受験当日ホンキを出して合格することはあり得ない。だから、故安倍氏はある意味で正しい。日ごろから有権者/市民としてしっかりと舞台を踏んでいることが重要で、主権者の出番は最後の最後にしておく。有権者/市民としてがんばる気がないのなら、主権者の出番はない。寝こけている方が身のためだろう。

『主権者を疑う──統治の主役は誰なのか?』
駒村 圭吾
ちくま新書
304頁、1,012円(税込)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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