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【執筆ノート】
『今を生きる思想 福沢諭吉──最後の蘭学者』

2023/06/29

  • 大久保 健晴(おおくぼ たけはる)

    慶應義塾大学法学部教授

慶應義塾は蘭学塾を起源とする。

このことは、多くの人がよく知る歴史的な事実である。実際1868年、「慶應義塾」と命名された際には、慶應義塾が『解体新書』を端緒とする蘭学の学問的伝統の上に成立することが、高らかに宣言された。

福澤諭吉が徳川期に大坂で蘭医・緒方洪庵の主宰する適塾で蘭学修業を積んだことも、よく知られる。

しかし福澤と蘭学との関係は、これまで十分に解明されていない。

本書は、〈はじまりの福澤諭吉〉に遡り、蘭学を切り口として、世界史の文脈を視野に入れながら、福澤諭吉の生涯と19世紀日本の政治思想を読み解くことを主題とする。

「蘭学」と聞くと、医学や天文学が思い起こされるかもしれない。だが江戸時代の西洋学である蘭学の射程は、それだけにとどまらない。

徳川末期、福澤は蘭学者として、先駆的にヨーロッパの統計表を受容した。また西洋兵学と取り組む中で、ナポレオン戦争の背後に潜む、近代国民国家の論理を鋭く看取した。「一身独立して一国独立す」と説く福澤の政治構想の裏面には、徳川期の蘭学を源流とする西洋兵学への深い洞察が、べったりと、はりついている。さらに適塾では、同時代ヨーロッパで進展する「電気革命」を支える諸学説にも触れていた。

そして何より、福澤自身、近代日本の文明化の起源は、江戸期の蘭学にあると繰り返し語った。

蘭学者・福澤諭吉は、今日まで続くグローバル化の出発点に立ち、適塾時代から、来るべき世界を支えるテクノロジーの原理を探究した。その経験と学識が基底に存在したからこそ、明治期に入り日本の文明化と独立に向けた政治構想を提示するとともに、交通やメディアの発展が人々の精神にもたらす弊害についても鋭い診断を加えることができた。

現代社会では、SNSの発展により、フェイクニュースに踊らされ、分断と対立が深刻化している。そんなポスト真実と呼ばれる時代を見通したかのように、福澤は「窮理」の学を重んじ、「信の世界に偽詐(ぎさ)多く、疑の世界に真理多し」と喝破した。

本書を道案内に、福澤諭吉の思想の森を奥深くまで散策する醍醐味を味わっていただければ幸いである。

『今を生きる思想 福沢諭吉──最後の蘭学者』
大久保 健晴
講談社現代新書
128頁、880円(税込)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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