【執筆ノート】
『百冊で耕す──〈自由に、なる〉ための読書術』
2023/06/19
本なんて、好きなものを好きなように読めばいい。
その通りだ。ただ、読書論のたぐいは、世にいくらあってもかまわないとも思う。なぜなら、読書論を読むと、本を読みたくなるから。じっさい、わたしも多くの読書エッセイを読み、発奮させられてきた。本学・小泉信三先生の『読書論』(岩波新書)も、そのひとつだ。
編集者に請われ、わたしも読書論を上梓してしまった。類書と違うところがあるとすれば、すべての章をA面、B面の2部構成にしたところ。第1章なら「A面 速読の技術/B面 遅読の作法」といった具合である。世の中には速読の効用を説く本がある。速読の弊害を力説し、遅読・精読を薦める本もある。
どちらが正しいのか?
どちらも正しく、どちらも間違っている。そもそも速読ができなければ、精読だって覚束ないはずだ。
もうひとつ。これは特徴というか、欠陥かもしれないが、全編を通じて、うわごとを口走っている気味がある。若い読者に指摘されたのだが、著者(=わたし)が熱に浮かされているので、「突っ込みどころが満載」だというのだ。
古典文学のリストを端からつぶしていくこと。哲学、思想、数学ほか自然科学の、難しい本をあえて読むこと。外国語(それも数カ国語)の本に体当たりするべきこと。
そうしたことを述べるわたしの口吻が、うわずっている。書いてる当人はいたってふつうの顔で、むちゃくちゃ過激なことを説いている。気がふれている。笑っちゃう。
そう、言うのである。
たしかに。読み返して、自分でもあきれた。では、もし改版する機会があるとすれば書き直すのかと問われれば、否と答えるほかない。
この忙しい時代、ネットサーフィンでもなく、ChatGTPに聞くのでもなく、YouTube動画に解説してもらうのでもなく、わざわざ紙の本を買ってきて、辛気くさくも本を読むのはなぜなのか。
1人になるためである。孤独に慣れるためである。では、なぜ孤独に慣れる必要があるのか。それは……。
ほらまた。こうしてうわごとが始まってしまうのだ。
『百冊で耕す──〈自由に、なる〉ための読書術』
近藤 康太郎
CCCメディアハウス
314頁、1,760円(税込)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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近藤 康太郎(こんどう こうたろう)
朝日新聞編集委員・塾員