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【執筆ノート】
『「生きづらさ」を聴く──不登校・ひきこもりと当事者研究のエスノグラフィ』

2023/01/21

  • 貴戸 理恵(きど りえ)

    関西学院大学准教授・塾員

本書は、私がこれまで書いたなかで、いちばん出版が嬉しく、誇らしかった本だ。たぶん「自分の本」ではなく「みんなの本」だったからだと思う。

「みんな」というのは、「生きづらさからの当事者研究会」のメンバーのことだ。不登校・ひきこもりなど何らかの「生きづらさ」を抱えた人が集い、対話を通じて自分の問いを共有する。本書はこの会を対象としたフィールドワークの成果である。

「生きづらさ? 自分とは関係ない」と思う人もいるかもしれない。でも、本書で見ようとしたのは、人がいかに生きるかという普遍的な課題だ。人間はひとりひとり異なる存在だが、つながりのなかで生きざるをえないのもまた人間である。その時、「自己である」と「他者とともにある」は、どのように両立するのか。これは誰にとっても難問だが、特に学校や職場といった日常の組織にうまくなじめなかった経験を持つ人びとにとっては、「自分を抑圧して集団に合わせる」か、「自分を解放して集団から排除される」かの二択になりやすい。そうではない個と集団のあり方について、具体的な場をつくる実践を通じて、考えた。

「居場所」や「対話」という言葉には、「善きもの」という印象がつきまとう。だが実際には葛藤も多く、「善きもの」ばかりとはいえない。「居場所」は闇鍋のように混沌としていて、「対話」には不全感や痛みが付きものだ。関係性は流動していて、書く端から変わってしまう。私は観察者というよりは場の一部で、巻き込まれ、右往左往し、書いては破棄する時期が長く続いた。この「巻き込まれ」自体を書けばいい・書くしかないのだ、と気づいた時に何かが動き始めた。

本書のもとは博士論文であり、学術書の体裁をかろうじて保っている。だが、学術書の基本姿勢である「客観・中立」的立場からは、見えない世界がある。本書には、端ばしに「私」が登場する。奥に引っ込んでいた「私」を引きずり出したのは「みんな」であり、考え語る背後には「みんな」から突き付けられた問いがあった。だからこの本の本当の著者は、「みんな」なのだと思っている。

『「生きづらさ」を聴く──不登校・ひきこもりと当事者研究のエスノグラフィ』
貴戸 理恵 
日本評論社
336頁、2,750円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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