【執筆ノート】
『ウクライナの夜──革命と侵攻の現代史』マーシ・ショア著
2022/08/29
翻訳をしていて、これほど不気味な感じを経験したのは初めてだ。〈……ベテランの戦争特派員である彼は、ドネツィク空港での日々を人生のなかで最も異常な体験の一つに数えている。「この戦争は変わった戦争だな」と彼は言った。「なぜならこの戦争には何の理由もないからだ。あげられる理由の数々はまったく架空のものだし、すべてがロシアのテレビが流した嘘の上に成り立っている。人びとが殺し合う理由などどこにもない。まるで不条理劇だ」〉(209頁)。ここに描かれているのは2014年の話なのだ。(ロシアのテレビ事情については、拙訳ピーター・ポマランチェフ『プーチンのユートピア』に詳しい)。
第1部は「マイダン革命」。ウクライナ人の持つヨーロッパ志向は、マイダン革命でヤヌコーヴィッチ大統領をロシアに亡命させた。ただ、その後には、ロシアによるクリミア併合があり(「国民国家」としてのウクライナはこの時点で成立したと言えよう)、ドンバスではロシアの露骨な介入から紛争が始まる。
第2部はドンバス紛争を扱った「キーウの東での戦争」。本書では、オーラル・ヒストリーの合間に、著者マーシ・ショア氏(ティモシー・スナイダー氏の夫人)の歴史家としての示唆的な考察が鏤(ちりば)められている。
拙訳のスナイダー『自由なき世界』(2020年)等からプーチン・ロシアの侵攻は想定内であったとはいえ、本書の翻訳中に起きた「ジョン・ウェイン・スタイル」での侵攻には度肝を抜かれた。現在進行形のウクライナの戦況と翻訳の内容が、頭の中で重なってしまったものだ。
〈「……プーチンは何を考えているのだろう? 」 それは、ヨーロッパの運命がまたしても一人の男の手に握られていることを、みなが暗黙のうちに了承しているかのようだった〉(130頁)。これもまた2014年の話である。プーチンをヒトラーに擬(なぞら)えるのは、あるいはミュンヘン会談とミンスク2を宥和政策の失敗例と捉えるのは、今となってはむずかしくもないことであろうが。
著者は、ロシア人の親友ポリーナのプーチン擁護の言説を何頁にもまたがって紹介するなど、偏った見方はしていないことも付言しておく。
『ウクライナの夜──革命と侵攻の現代史』
マーシ・ショア著 池田年穂(訳) 岡部芳彦(解説)
慶應義塾大学出版会
288頁、2,750円〈税込〉
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
- 1
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |
池田 年穂(訳)(いけだ としほ)
慶應義塾大学名誉教授