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【執筆ノート】
『砂まみれの名将──野村克也の1140日』

2022/06/10

  • 加藤 弘士(かとう ひろし)

    報知新聞社デジタル編集部デスク・塾員

「お前、大学どこだっけ?」

「慶應です」

「全くそうは見えんな」

野村克也監督の番記者を4年間務めた中で、このようなやりとりを5回以上は繰り返したと記憶している。

野村監督は「ベストセラー作家」でもあった。本屋に行けばスポーツ本のコーナーに「野村本」は数多く並ぶ。その数は200冊以上とも言われる。テーマは野球にとどまらず、経営的な視点からの著作も多い。

しかし、野村監督にはそれらでほとんど描かれていない3年間があった。夫人の脱税スキャンダルに見舞われ、阪神監督を3年連続の最下位で退任してから1年後、社会人野球・シダックスのGM兼監督としてアマチュア野球の指揮を執った日々だ。

戦後初の三冠王に兼任監督として活躍した南海時代、三度の日本一に導いたヤクルト時代、国民的ボヤキスターとしてスポーツニュースを彩った楽天時代に比べて、シダックス時代はウィキペディアにもわずかな記述しかない。このままではあの日々がなかったことにされてしまう。シダックス時代の3年間を番記者として追いかけた唯一の人間として、「書き残さずに死ねるか」と勝手な使命感で書いたのが、本書である。

シダックスには自前の練習場がなかった。普段はリトルリーグの少年たちが使う、日よけも雨よけもない空き地のような調布市内のグラウンド。野村監督は砂ぼこりで顔を真っ黒にしながら、指導に没頭していた。私はうっかり「こんな酷いところでやっているんですか」と聞いてしまったことがある。怒られるのかと思ったが、名将はいい顔で言った。

「野球は野原でやるから、野球なんだよ」

一見、不遇にも見えた3年間を野村監督は後に「あの頃が一番楽しかった」と振り返っている。その言葉の意味を解き明かすために、約20人に取材を行い、書き下ろした。

唯一の後悔は、この本を読書家の野村監督に読んでいただけなかったことだ。粘り強く取材と執筆に没頭できたのは、日吉と三田で青春時代に培った根性のおかげである。

熱く濃い1冊に仕上がった。きっと監督もこう褒めてくれるはずだ。

「さすがは慶應やな」

『砂まみれの名将──野村克也の1140日』
加藤弘士
新潮社
256頁、1,650円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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