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【執筆ノート】
『「神」と「わたし」の哲学──キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』

2022/03/10

  • 八木 雄二(やぎ ゆうじ)

    東京キリスト教神学研究所所長・塾員

今回の本の題名は、はじめて著者の意向どおりになった。原稿を読んだ編集者は、作品の出来の良さは確かと思えても、読者の心を惹く題名はなかなか思いつかないようだった。これまでは、著者の意向は頭からはねつけられてきたので少し驚いている。どうやらこれまでの著作とは出来が違うらしい。

ところで、「わたし」という言葉を聞いて最初にイメージするのはだれしも「自分自身」だと言えるだろう。ところが、「わたし」は、人の数だけ居る。そのことについて、じっくり考えたことがある人は、案外に、少ないだろうと思う。

つまり「わたし」は、特定の個体を意味すると同時に、「わたし」と言うことができるすべてに普遍的な(共通な)言葉である。この普遍的な意味のほうを哲学では「人格」とか「ペルソナ」と呼ぶ。

ヨーロッパが近代に個人の尊厳(人権)を民主主義の原点にしたのは、この視点からの中世の神学による「わたし」の思想的深化があってのことである。

地道な哲学の研究だからこそできる重要な社会への貢献があるとすれば、それは何よりも、「ことば」の表面の違いはかならずしも意味の違いではないことを明らかにすることである。

ところで、一般人として「わたし」がものを考える時、「わたし」は「わたしたち」になって物事を考える。したがって社会人としての「わたし」は、もはや真の「わたし」ではない。そして社会がもつ思想的浸透力が個人に対して強くなりすぎる時、真の「わたし」が人々の間から見失われ、個々人の人間力が失われる。

今、さまざまな形で「わたし」が問題にされるのは、現代がまさに「わたし」の危機の時代だからだろう。中世ヨーロッパ、個人に対するキリスト教会の思想的支配は、当然、大きなものだった。そしてそれに対抗する「個人」の思弁が、三位一体論(ペルソナ論)や抽象認識に対する直観認識として、神学者たちの間で議論されたのである。

ヨーロッパ中世は「歴史の彼方」に置くべきではなく、まさに今こそ学ばなければならない思想的営為なのだと考えている。

『「神」と「わたし」の哲学──キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』
八木雄二
春秋社
320頁、3,080円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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