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【執筆ノート】
『明治日本はアメリカから何を学んだのか──米国留学生と『坂の上の雲』の時代』

2022/02/22

  • 小川原 正道(おがわら まさみち)

    慶應義塾大学法学部教授

私がはじめてアメリカに留学したのは、2005年のことである。明治初期に慶應義塾に学んで渡米し、イエール大学に留学した岡部長職(おかべながもと)の伝記を書いており、イエールで懸命に彼の資料を収集した。

2度目のアメリカ留学の機会は、2013年に訪れた。ハーバード大学に所属したが、せっかくアメリカに来たので、現地でしかできない研究をしようと志した。そこで手をつけたのが、ハーバードや隣のマサチューセッツ工科大学(MIT)、そして、イエールに明治初期に留学した日本人に関する資料収集である。

はじめてハーバード大学を卒業した日本人の1人、井上良一については、私の師匠筋にあたる手塚豊博士が、すでにすぐれた論考を書いておられる。井上はロースクールを卒業したので、ハーバード・カレッジの場合はどうか、調べてみると、吉川重吉と中原儀三郎の2人であることがわかった。吉川は卒業後もハーバードとの関係を維持し続け、同大学の日本文明講座設置に寄与するなど、日米の学術交流にも尽力したことが、同大学の資料群から判明する。

MITを最初に卒業した日本人は本間英一郎という鉄道技師だが、2番目が三井財閥の総帥となる團琢磨(だんたくま)で、彼に関する資料も多数残されており、日露戦争の際にはハーバードの金子堅太郎とともに、アメリカ世論を親日化すべく広報外交に努めていたことがわかった。イエールに最初に入学した日本人、吉原重俊は、初代の日銀総裁となる。

本書は、こうしたアメリカでの資料調査の成果などを踏まえて、明治のアメリカ留学生が現地で何を学び、その後、日米関係にどんな影響を与えたのかについて、考察したものである。幕末の新島襄の密航からはじまり、第二次近衛文麿内閣で外相を務めた松岡洋右に至るまで、多くの留学生が渡米し、日露戦争の際の広報外交から日米開戦に至るまで、様々な形で日米関係に関与した。半ば主人公的立ち位置にいる金子は、親米家から嫌米家へと態度を変え、太平洋戦争中に死去する。

そんなおよそ百年の歴史をつむいだ留学生たちの足跡を、アメリカや留学生に関心のある読者各位に、たどっていただきたい。

『明治日本はアメリカから何を学んだのか──米国留学生と『坂の上の雲』の時代』
小川原正道
文春新書
256頁、968円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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