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【執筆ノート】
『考える親鸞──「私は間違っている」から始まる思想』

2022/01/27

  • 碧海 寿広(おおみ としひろ)

    武蔵野大学准教授・塾員

私は学部生時代から仏教に関心を持ち、やがて研究者を仕事に選んで仏教関連の本を書くようになった。本書が5冊目の単著である。こうしたキャリアの人間としてはやや異例なことに、学部は経済であった。

仏教、というよりも仏教を含めた思想・哲学的なもの全般に興味を抱くようになったきっかけは、坂本達哉先生(現在、慶應義塾大学名誉教授)の経済思想の講義で、アダム・スミスの学問を知ったことにある。先生の講義から、人間や社会について深く思想することの面白さを教わったのだ。

その後に紆余曲折を経て、仏教を通して人間や社会を熟慮するという、自分の学問のスタンスが確立した。アダム・スミス(に関する講義)に触発された結果、仏教研究者になった人間は、稀だと思う。いずれにせよ、今の私の学問に、慶應の経済学部のリベラル・アーツ的な要素は、確実に影響を及ぼしている。

本書にしてもそうだ。親鸞をテーマにした従来の学問的な本は、仏教史の研究者や浄土真宗の学僧が書いたものが多い。それらの本は、親鸞がいかにして自身の教義や思想を形成したのかを、歴史学や仏教学の手法によって解き明かしてきた。

それに対し、拙著では親鸞という中世の僧侶の教えを、後世の者たち、とりわけ近現代の時代を生きた人々が、どのように受け止め、これを自己の人生の指針にしてきたのかを、多面的に論じた。

明治から大正時代の頃より、親鸞は教養人のあいだで一種のスターとなる。つまり、リベラル・アーツ的なものを重んじる人々のなかに、親鸞に傾倒する者が数多くいたのだ。

彼らは、『歎異抄』という親鸞の言葉を伝える書物を通して親鸞に「弟子入り」し、自らの思考を鍛え上げ、自己の人生を省みた。

拙著では、そのように『歎異抄』の読書を介して親鸞を考えた人々の軌跡をたどり、「日本人にとって親鸞とは何か」、「親鸞はなぜ日本人に人気なのか」という問いを探究した。

「無宗教」を自認する人の多い現代の日本でも、依然として親鸞の思想は教養として重要だと思う。親鸞ほど、日本人の肌感覚に即した仏教を語った人物は、ほかにいない。

『考える親鸞──「私は間違っている」から始まる思想』
碧海 寿広
新潮選書
240頁、1,595円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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