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【執筆ノート】
『無駄な死など、どこにもない──パンデミックと向きあう哲学』

2021/10/13

  • 山内 志朗(やまうち しろう)

    慶應義塾大学文学部教授

新型コロナが流行し始めたとき、深刻に受け止める人は多くはなかったと思う。それから2年近く経った。この疫病の流行は止む気配もない。ワクチンも開発され、接種者も徐々に増加する状況の中で、少し光が見えたような時期もあったが、新規感染者の増加はなかなか終わらない。

本書は、昨年度(2020年6月)に、未来哲学研究所が行ったコロナ禍をめぐるアンケートに答えた一文「断末魔の苦しみも……無駄に経験されるのではない」という文章が機縁となった。

私がこの本で語りたかったのは、単純なことだ。中世の聖人アッシジのフランチェスコ(1181/82~1226)の思想を語ることだ。日本の鎌倉時代の親鸞(1173~1262)とほぼ同時代の人物だ。彼の思想はシンプルだ。この世の全ての事物、生物、山や空気や星の自然物も悉く神の被造物であり、そして総て姉妹兄弟だというのだ。事物だけではない。病も苦難も、いやそれどころか死もまた姉妹なのだ。

死は乗り越えるべき課題と捉えられてきた。ロシアの思想家フョードロフは、人間に死があるのは、人間が倫理的に不完全であるからだと考えた。人間がより完全になるために、個体の死が必要だと捉えた。そして、人間が倫理的に完全になれば、死ぬ必要がなくなり、不死になると考えた。不死になって、この地上に人間が溢れかえるときのためにロケットで宇宙に出ていって地球外に人が住む時代を、飛行機の発明に先立って夢見た。

このような教説を夢物語と笑うこともできる。しかし、それでよいのか。少女であるグレタ・トゥーンベリの地球温暖化と人類滅亡から救済の物語は、けっしてそういう物語から遠いものではない。

疫病に立ち向かうためには、政策面での社会全体に及ぶ方策と、具体的な医学的な予防方針と治療体制を準備することが必要だ。ただ、コロナをゼロにすることが困難である以上、コロナと長い間立ち向かうためには、粘り強い我慢と未来への希望が必要だ。生き抜くための倫理が必要ではないのか。その気持ちをこの一書に込めた。未来の世代のためにも早い終息を心から願う。

『無駄な死など、どこにもない──パンデミックと向きあう哲学』
山内 志朗
未来哲学研究所
256頁、1,980円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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