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【執筆ノート】
『「国語の時間」と対話する──教室から考える』

2021/06/14

  • 五味渕 典嗣(ごみぶち のりつぐ)

    早稲田大学教育・総合科学学術院教授・塾員

学校教育を語ることは難しい。何しろ、ほとんど誰もが経験者なのである。しかも、学校生活には良い思い出があっても、教室での勉強が楽しかったという方にはなかなかお目にかからない。だからだろうか、社会的な成功者と自他ともに認められた人たちの一家言がもてはやされる。しばしば言われるように、学校や教育は社会の未来にかかわるものだから、おのずとその一家言にも熱が入る。これまでの教育ではダメなのだ、これからの学校はかくあるべきなのだ──。こうした声に後押しされて、メディアの言説は学校や教員を「抵抗勢力」と描きがちである。学校教育が変わらないのは、教員たちが変わる努力をしないからなのだ、と。だが、本当にそうなのか。

今回の拙著は高校国語がテーマである。文学作品を非実用的な文章として囲い込みつつ、ことばから始まる学びをことばをめぐる社会的規範の訓練に切り縮めようとした新しい高校国語のカリキュラムに対する批判が中心的な内容だが、いちばんに考えていたのは、「改革」に翻弄されてきた高校の先生たちを応援したい、ということだった。わたし自身、教員としてのキャリアを高校から始め、長く教科書編集にも参加してきた。その立場から、教室で向き合う生徒たちに、現代をしたたかに生き抜くためのことばの力を育てたいと創意工夫を続ける現場の先生方に、ささやかなエールを送りたかった。

文部科学省の調査によれば、2020年5月段階で全国の高等学校数は4874校、在学する生徒数は約309万2000人。本務者として働く教職員数は22万9000人ほど。非常勤や臨時任用を含めれば教員数はもっと増える。これだけの数の生徒たちが学び、これだけの数の教員たちが教えている。教室では教員にも生徒にも日々新たな学びがあり、学び直されることがある。教員にとっては、教材をめぐって生徒とすれ違うこともまた、重要な学びの場面に他ならない。高校国語に限らず、現場の経験知と、各教科・科目ごとの専門性を無視した「改革」は、教員たちのモチベーションを奪い、現場を疲弊させるだけだ。そんな先生たちに教わる生徒たちが、学ぶことを楽しめるはずがない。

『「国語の時間」と対話する──教室から考える』
五味渕 典嗣
青土社
274頁、2,420円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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