三田評論ONLINE

【執筆ノート】
『マザリング──現代の母なる場所』

2021/03/17

  • 中村 佑子(なかむら ゆうこ)

    映像作家・塾員

産後、電車を途中で降り、駅のベンチで授乳をしたことがあった。このとき自分が文明世界から切り離され、旧石器時代の人類に、あるいは全ての哺乳類に繋がっていく原生的な感覚に襲われた。濡れてぬるぬるした私たちが身を置く場所がこの都市のなかにない。私は次第に失語症的な状態に陥った。

産後の女性のなかには、自他の境界を彷徨う人がいる。この自他未分状態は精神的な乖離でもあり、同じ体験をしている母親が、他にもいる。言葉を探したいと思い始めた。

寺尾紗穂さん、相馬千秋さんをはじめ、身近にいた母親たちに聞き取りをする形で文芸誌『すばる』での連載が始まり、取材が進むにつれて、ここで問うていることは育児にとどまらないと感じ始めた。傷ついている者や弱い存在に手を差しのべるとき生まれる感情とは何か、ケアとは何かという根幹に執筆しながら辿り着いていったのだ。それは出産前から始まった母の介護で3カ月間休職し、社会から降りたときに見えた風景にも繋がっていた。

取材対象者も次第に広がっていき、養子を迎えた方、母だけではなく父親としてドミニク・チェンさん、子供を産まないと決めている韓国のイ・ランさん、ドイツで学生たちに献身的に触れ合っているイケムラレイコさんなどに話を伺い、手垢にまみれた「母」や「母性」という概念を解体しなければと思うようになった。そして「マザリング」という概念と出会った。

「マザリング」とは、「the act of caring for and protecting children or other people」、つまり「子どもやその他の人々をケアし守る行為」として性別に規定されない。さらに欧米の研究では資本主義に対抗するラディカルな概念として扱われていた。

個人主義的な現代では「依存」はマイナスな印象で語られる。しかし全ての人が生死を経験するなかで、脆弱でない存在などおらず、他者に依存せずにいられるという幻想を社会は育て過ぎている。かつて出産や、死と接するあわいの状態への言葉がもっと多様にあったかもしれない。生を疎外して成立するような今の世界に、マザリングは1つの灯とならないか。そんな想いで、書いた本だ。

『マザリング──現代の母なる場所』
中村 佑子
集英社
312頁、2,200円〈税抜〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事