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【執筆ノート】
『赤塚不二夫 伝──天才バカボンと三人の母』

2019/12/13

  • 山口 孝(やまぐち たかし)

    ジャーナリスト・塾員

「おそ松くん」や「天才バカボン」を遺した漫画家・赤塚不二夫は、一体何者だったのか? キーワードは「マザコン」にあった。赤塚は「マザーコンプレックス」を自認していた。3人の「母」がいた。彼女たちを通して、赤塚の実像に迫った。

生みの母・りよは戦後、満州から、赤塚ら四子を連れて引き揚げてきた。父はシベリア送りになっていた。貧しい生活の中、手塚治虫の作品を読んで感動、漫画家を志した赤塚に貴重な紙、ペンを与えて応援した。

2人目の母は、最初の妻・登茂子だった。出世作「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」を一緒に手掛けた。成功して、酒、女に走った赤塚と離婚してもなお、彼を気遣い、再婚まで世話する「母」になった。

3人目の母は、2番目の妻・真知子。アルコール依存症のどん底から赤塚を復活させる。食道がんになったときは気丈に明るく、脳内出血で倒れたあとも健気に支え続けた。

「まあ一杯飲みなさい」。赤塚との初対面は、いきなり「グラスの勧め」だった。1992年の初夏。それから、僕は赤塚不二夫に密着取材した。

「千人切り」と豪語した女性遍歴や、泥酔してのテレビ出演など、破天荒ぶりばかりが目立ったが、それは赤塚流のサービス精神の表れ。素顔は、シャイで、常識的で、人をこよなく愛する、気配りの人だった。

95年、当時勤めていたスポーツニッポン新聞社で、戦後50年企画「バカボン線友録」を担当。漫画家でたどる戦後史で、毎日、それも72回という長期連載だった。

打ち合わせが終われば、酒盛りになる。いつしかそのまま赤塚邸に寝泊まりするようになり、連載が終わっても、入り浸りになった。

実は、この本を書きはじめたのは2001年2月、赤塚から直接「僕のことを書いてみないか」と勧められたのがきっかけだった。

信頼と期待に応えたい、と、取材・執筆にかかった2002年、赤塚は脳内出血に倒れた。闘病中の06年には真知子が急逝。08年には登茂子、赤塚が相次いで亡くなった。

何度も萎えながら、それでも〝宿題〟が頭から離れることはなかった。本になるまで、18年もかかってしまったが……。

『赤塚不二夫 伝──天才バカボンと三人の母』
山口 孝
内外出版社
288頁、1,700円(税抜)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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