三田評論ONLINE

【執筆ノート】
『呑川のすべて──東京の忘れられた二級河川の物語』

2019/11/19

  • 近藤 祐(こんどう ゆう)

    一級建築士・塾員

東京の風物は激しく変貌する。私が20代の終わり頃に撮影してまわった同潤会アパートなど、すべて姿を消した。若い人に「以前ここには銭湯があった」などと話し、「いつの話ですか」と聞かれ「二十数年前かな」と口をすべらせてしまう。還暦をすぎれば当然とは言え、相手からすれば記憶している筈もない過去、つまりは歴史に属する話であろう。

今回の本に取り上げた「呑川(のみがわ)」は、東京の世田谷区・目黒区・大田区を流れる二級河川であり、私が幼少期から20代半ばまでを過ごした久が原、奥沢、等々力といった町々を流れていた。当時の記憶とともに、古地図や文献にこの川の来歴と変遷とを探り、三十数年の時間を跨ぎ水源から河口まで歩いてみた。「以前ここには……があった」は勿論、「こんなものが出現した」とか、「まったく記憶と符合しない」が頻出する。呑川そのものもドブ臭い下水河川から、無色透明な高度処理水を流す擬似河川へと変貌していた。

小学校に入学してすぐ、ある大雨の日、「あぁ呑川があふれている。今日は帰れないや」と級友がつぶやいた。かつて呑川はたびたび氾濫し、人家を「呑む」川であった。彼が見ていた方角にある呑川の「道々橋(どどばし)」の語源には、呑川に流れ込む洗足支流が「ドドドド……」と轟く滝であったからとの説がある。江戸文政年間の『新編武蔵風土記稿』にも、「霖雨(ながあめ)あれば……水災を免れす」と、合流点付近の氾濫を暗示する。あの大雨の日のエピソードも、私の人生におさまる時間であるが、すでに歴史の一部であるらしい。呑川両岸の荏原台地と久が原台地とは、ウルム氷期に前後する武蔵野ローム層で、両岸の支流や暗渠にその地勢の違いを探ることができる。さらに言えば呑川は、かつて荒川水系に注いでいた多摩川が現在のルートに落ち着くまで、流路変更を重ねた痕跡である。いずれも有史以前の話であろう。

変貌激しいとした東京の風物など、おそらくは武蔵野台地からすれば表層の苔みたいなものであり、その苔の隙間に仮寓する人間など、カビのような存在かもしれない。そんな人間の1人として、パスカルの「考える葦」ならぬ「歴史を語るカビ」が書いたのが、今回の本である。

『呑川のすべて──東京の忘れられた二級河川の物語』
近藤 祐
彩流社
188頁、2,700円(税抜)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事