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【執筆ノート】
『南方からの帰還──日本軍兵士の抑留と復員』

2019/11/11

  • 増田 弘(ますだ ひろし)

    立正大学名誉教授・塾員

抑留と復員は、戦争敗者の極限ドラマである。論より証拠。シンガポール沖にレンパン島という孤島がある。日本人捕虜約8万人はこの島に送りこまれた。ここは船が無い限り脱出不可能で、警備は不要、日本兵が死んでも知られることはない。一石三鳥の便利な自然収容所だった。日本軍兵士は木の若芽、ヘビ、ネズミ、バッタ等を1週間で食べ尽くすと、マラリア、アメーバ赤痢、脚気などの患者が3万人に達した。この危局に至って、ようやく英軍は救助の手を差し伸べた。

また日本軍兵士は戦犯疑惑を晴らさねばならず、被害を受けた現地の女性陣の前を、一人ひとり進み出て、〝面通し〟をさせられた。もし「この男だ」と証言されたら最期、監獄入となり、極刑となった。正式裁判などごく一部にすぎなかった。

他方、連合国側でも日本軍捕虜への対応に温度差があった。英軍のマウントバッテンはポツダム宣言に規定された日本軍兵士の早期送還を無視し、日本人の労働力を現地再建のために最大活用した。日本人をジュネーブ協定に基づく「戦争捕虜(POW)」とは認めず、「日本降伏者(JSP)」と見なし、無賃労働を強要した。蘭軍もこれに同調した。

これに対して米軍のマッカーサーは、国際規定の遵守を英・蘭軍に強く求め、早期復員と捕虜への賃銀支払いを迫った。米ソ冷戦下、英蘭が第2のソ連となることを恐れたからでもあった。吉田首相もマッカーサーの権威を借りて日本人の復員を懇願した。結局国際世論の後押しもあり、英・蘭側は復員完了と賃銀支払いに同意した。だが賃銀の計算はしても、支払い自体は日本政府に負担させた。最後まで英外交は狡猾だった。

それでも劣悪な条件下、日本軍将兵は多くの教訓を得た。東南アジアの占領行政はほぼ失敗し、大東亜共栄圏構想の欠陥を思い知らされた。「鬼畜米英」と敵視した米国人の豊かな人間性や物質文明に接して、日本人は自己を相対化できた。科学技術の重要性、軍部の権威主義的体質、敗戦後豹変した日本人の国民性など、自省の念も生まれた。

はたして日本人が得たこれら教訓は、今の日本社会の血肉となっているのであろうか。

『南方からの帰還──日本軍兵士の抑留と復員』
増田 弘
慶應義塾大学出版会
272頁、2,700円(税抜)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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