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【執筆ノート】
『江藤淳は甦える』

2019/07/11

  • 平山 周吉(ひらやま しゅうきち)

    雑文家・塾員

三田文学会理事長であり、SFCの教授もつとめた江藤淳が亡くなってからもう20年がたつ。亡妻の記でもある『妻と私』がベストセラーになっていた渦中の自殺は、各界に衝撃を与えた。「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり」。遺書には美しい文字で、激しい言葉が刻まれていた。

私はその当日、江藤さんの死の数時間前に鎌倉の御宅にうかがい、絶筆となる原稿を頂戴した。まったく乱れのない完全原稿に満足する担当編集者の私に、江藤さんは問いかけた。「江藤淳のぬけがらになっていないだろうか」。

4年がかりで書いた評伝『江藤淳は甦える』は、あの日なぜ江藤さんは自裁したのだろうという解けない疑問へのささやかな答案である。「ささやか」と言いつつ、本は800頁近くに膨れ上がってしまった。調べても調べても、書いても書いても疑問は解けず、江藤淳という不思議な人生の謎は拡がっていった。それは結果的に、戦後の文学とジャーナリズムに残した批評家としての巨大な足跡を確認する作業にもなった。英文科4年生の時に出版した『夏目漱石』以来、40数年間を第一線で書き続け、その間の「疲れ」と「虚しさ」が晩年の江藤淳に堆積していたのは間違いない。江藤淳は三島由紀夫に匹敵する戦後日本の最大の批判者に、いつしかなっていた。

江藤淳の人生にとって、「慶應」が大きな存在であったことは執筆中に再確認できた。大学受験時に読んだ福澤諭吉(江藤は卒業生への来賓祝辞では、『学問のすゝめ』から「私立の活計」という言葉を贈った)、文学部1年で同じクラスになった慶子夫人、批評家・江藤淳の発見者である「三田文学」の先輩作家・山川方夫(まさお)。この3人の誰が欠けても、「江藤淳」は生まれなかったと断言できる。

さらには文学部の2人の師の影響も見過ごせない。主任教授・西脇順三郎と世界的な言語学者・井筒俊彦である。西脇賞、井筒賞として名前を残す2人の巨人が、ある意味で「江藤淳」を育てたといえる。1人は圧倒的な尊敬の対象であり、もう1人は尊敬と敵意が綯い交ぜになった厄介な存在として。

『江藤淳は甦える』
平山 周吉
新潮社
784頁、3,700円(税抜)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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